モニュメントを観光客に効果的に見せるためにはどうすればいいのかという観点から、ルートの実例を紹介(「フランス語で街歩き」広島平和記念公園編レポート)

「フランス語で街歩き」シリーズで、東京近郊から離れた観光スポットを扱う初の試みとなる広島平和記念公園編。「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」が発行するガイド本『HIPの平和公園ガイド』を題材に、駒場の教室で開催しました。同ガイド本は、日英版のみ市販されているのですが、ルグラン先生、なんと受講生のみなさんのために仏語版を作成してくださいました!このサプライズに冒頭から大盛り上がりの授業となりました。

キャプチャ

広島は、世界で初めて原子爆弾が投下された都市ということもあり、ガイドとしては外せないスポットとのことで、フランス語圏からの観光客も多く、実際にルグラン先生も何度も案内されているそうです。現在はもちろんのこと、戦前・戦中のビジュアル資料を参照しながら、授業は進んでいきました。

広島平和記念公園を案内する場合、何よりも原爆に関する知識が欠かせません。たとえば「爆心地」を説明する場合、le centre de l’explosion(爆発の中心)という表現以外に、le hypocentreという単語もあるとのこと。先生の翻訳と解説を通じて、さまざまな語彙を学ぶ機会となりました。また、原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という有名なメッセージについても、先生はその主語のあいまいさを指摘されていました。一見したところ自然な日本語でも、異なる言語に訳する営為を通じて、普段なら見過ごしてしまう視点に気づかされるというのは、異文化理解で欠かせないポイントではないでしょうか。

現地に赴かなくても、課外授業のノウハウを学ぶこともできます。たとえば平和の灯の場合、その台座は両方の手のひらを上に向けて広げた形に造られています。ルグラン先生は、そうしたモニュメントを観光客に効果的に見せるためにはどうすればいいのかという観点から、ルートの実例を紹介していました。広島平和記念公園は、原爆ドーム、平和の灯、原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館が一直線に並び、慰霊碑のアーチの奥に原爆ドームが見えるように設計されています。都市の復興への願いを見事に体現した丹下健三の代表作のひとつです。そうした地形や建築に関する特徴を理解しておくことも、印象に残るガイディングに役立つのではないだろうか。授業を見ていてそのように感じました。(次回の「フランス語で街歩き」は 11/25(日)明治神宮&原宿編です。現地での実践演習となります。詳細はこちら

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最終話 – 連載『5月革命 50周年』

「5月革命」と世論調査

「5月革命」の記憶が10年ごとに種々の世論調査の対象になってきたのは,別に驚くことではない。驚くべきは,論壇における知識人たちの評価がきわめて厳しかった1980年代から90年代においても,全体としてみるとフランス人が一貫して,68年5月が社会に及ぼした影響を肯定的に捉えていることである。「革命」から20年たった1988年になされた調査によれば,回答者の60%は68年5月がフランス社会に変化をもたらしたことを認めているばかりか,23%はこの変化が「大きなもの」であったと答えている。そして,調査対象の55%にとって,そうした変化は「むしろ良いもの」だったのに対して,それを「むしろ悪いもの」と考えるのは25%にとどまった。さらに,上にも書いたように,2007年の大統領選挙に際して,保守派の候補者サルコジが「68年の遺産を決定的に清算する」ことを,選挙期間中の重要な論点の一つとして当選したにもかかわらず,2008年にCSA社が行った調査によれば,「68年5月」を肯定的にとらえるフランス人は全体の74%に達し,前年の大統領選挙に際してサルコジに票を投じた人でさえ,65%が肯定的な評価をしているのである(社会党の公認候補であったセゴレーヌ・ロワイヤルSégolène Royalを支持した人たちの間では,この比率は83%に上がる)。

とくに興味深いのは,同じCSAの調査では,「秩序と権威を重視する社会」と「より個人の自由を認める社会」のどちらを好むかという質問に対しては,57%が前者を選び,後者を選んだのは37%でしかなかった,という事実である。また,若いカトリック信者を主な読者とする雑誌『ペルランPèlerin』のためにSofres社が実施した調査でも,68年5月の影響を「良い」,あるいは「むしろ良い」と考えるものが全体の73%で,さらに3%は「非常に良い」と答えている。とはいえ,同じ調査で68年5月の価値観に親近感を覚えるかどうかという質問に対しては,全体の50%が否定的な回答をしているのに対して,肯定的な答えは45%にとどまっている。

最後に,2018年4月,すなわち50周年が近づいたときに実施されたViavoice の調査によれば,「5月の遺産」を積極的にとらえるものが全体の70%にまで達している。この調査を紹介している『リベラシオン』紙(« L’opinion se réjouit sans clivage », par Jonathan Boucher-Petersen, Libération, 1 mai 2018)は,Viavoice社の政治調査部長オーレリアン・プルドムAurélien Preud’hommeの次のような解説を引用している。すなわち,「論壇や政界では68年5月に対する評価が現在でも大きく割れているのに対して,国民の間ではかなり大きなコンセンサスが成立している。事実,68年5月を肯定的に評価するものは左翼支持者の間で88%であるのに対して,中道支持者でも77%,そして極右政党である国民戦線FNの支持者でさえ68%に上っているのである。68年5月を批判する人々は,それをリバタリアンの「ババ・クールbaba cool(ババはヒンドゥー語でパパを意味する。1981年にフランソワ・ルテリエFrançois Leterrier監督が撮影した『ババ・クール,あるいは片が付いたら合図してLes Babas-cool ou Quand tu seras débloqué, fais-moi signe !』による表現で,共同生活を送るヒッピーを指している)」の姿に矮小化しているが,多くのフランス人にとっては,68年5月まず何よりも社会的,政治的な進歩を意味している。確かに調査対象の多くが68年5月を暴力的な運動であったと考えているが(「暴力的」と考える人が47%,「平和的」と答えた人が33%),それでも,当時の政府に親近感を寄せるものは全体の12%に過ぎず,38%は運動参加者に対してより親近感を抱いている[1]」。

 

「5月革命」の遺産

サルコジが「決定的に清算する」とした68年5月の遺産とは何か。当時の反政府運動の主要な指導者のひとりであったクリヴィヌが,2018年3月9日付『ル・パリジアン』紙とのインタビューで,「5月革命で指導的な立場にあった誰一人として,真剣に権力を奪取する用意もなかったし,それが可能だとも考えていなかった[2]」,と認めている。それはおそらく真実だろう。それでなければ,68年6月の繰り上げ総選挙や,翌年のド・ゴール辞職を受けた大統領選挙に際して,左翼陣営が準備不足ゆえの内部対立をさらけ出して,惨敗に終わることはなかったはずである。

政治権力を行使できるか否か,という観点からだけ判断すれば,「5月革命」は失敗に終わった,といっても過言ではない。それにもかかわらず,その後30年以上にわたって,保守政治家はもとより,多くの哲学者や政治学者が,「5月革命」に対する強い反感を隠さず,その遺産をいまだに恐れていることは疑えない。何がその原因になっているのだろうか。

いくつかの世論調査が示しているように,「5月革命」はまず何よりも労使関係など,社会面における前進をもたらし,生活習慣や社会関係mœurs,教育の分野に大きな変化をもたらしたのである。企業内の人間関係や教育の場における教師と生徒の関係,あるいは社会生活における男性と女性の関係など,調査の回答者が重視する68年5月の遺産はもっぱら人間関係,社会的な価値観にかかわるものである。そして,それが68年当時は極めて大きな混乱,無秩序をもたらしたことも確かだろう。たとえば,アニー・コエン=ソラルAnnie Cohen-Solalの『サルトル 1905-1980』が描写している,ソルボンヌの大講堂にサルトルが学生たちとの「討論会」に出席した時の様子[3]がある。同書によれば,超満員に膨れ上がった大講堂には「信じられないような混乱の中にあり」,討論にわずかでも筋道をつけられるような司会者も責任者もいない中で,高名な哲学者に対していきなり「ジャン=ポール」と名前だけで呼びかけて,「あなた」ではなく「おまえ」と語りかけるtutoiement若者たちが,あらゆる類の質問を投げかけたという。

そうした変化,一言でいえば自由の拡大は,大学やその関連施設だけでなく,職場でも,友人関係でも認められるものであった。私が働いていた東京のフランス大使館でも,大使をはじめとする幹部職員とその他の職員との間で,日常のかかわり方や言葉遣いに微妙な違いが表れて,時とともに次第に明確になっていった。

それを伝統の破壊,民族アイデンティティーの喪失,既成権威の崩壊ととらえるか,それとも人間らしさの発露,自由の拡大,平等の前進と考えるかは,個人ごとに異なる判断があってもおかしくない。しかし,歴史を振り返ると,その当時は成功したといえる「革命」もそのほとんどが,政治的にはのちに成果を覆されたり,そこまではいかずとも,部分的に逆戻りさせられたりしているのに,社会的な前進とされるものを再度俎上に載せることはより難しいし,まして個人の意識にかかわる「革命の遺産」を根本から崩壊させることは,ほぼ不可能なのではないだろうか。68年5月についても,このことは確かだと考えたい。その意味からきわめて興味深い証言として,当時は『ル・モンド』の記者をしていたロラン・グレルサメールLaurent Greilsamer(2014年以降は週刊誌『L 2』の編集顧問。なお,1953年生まれのグレルサメールは1968年には15歳になったばかりで,パリのビュフォン高校Lycée Buffonに在学していた)の次の文を引用して締めくくりにしたい。

 

「私たちは,際限なく厳しくてもの悲しく見えた灰色の世界から抜け出していた。…68年5月以前は白黒の世界だった。そのあとはテクニカラーであるNous sortions d’un monde gris qui nous semblait infiniment dur et triste… Avant Mai 68, c’était du noir et blanc.  Après, du Technicolor. « Mai commença en janvier … », par Laurent Greilsamer, Le Monde, 5 mai 2008.」

 

Odeon-Mai1968
Eric Koch / Anefo
[1] Mais quel est donc cet héritage qui vient nourrir le regard très majoritairement positif des Français sur Mai 68, alors que ces événements ont clivé le pays à l’époque? Loin de la caricature baba cool et libertaire à laquelle ses procureurs voudraient le réduire, dans la mémoire française Mai 68 reste en premier lieu un souvenir positif pour les avancées sociales et politiques rendues possibles par les utopies et les mobilisations populaires d’alors. «61 % des Français associent Mai 68 à une convergence des mobilisations entre étudiants et travailleurs, plus qu’à un mouvement de la seule jeunesse (19 %) ou circonscrit au monde du travail (14 %)», souligne Aurélien Preud’homme. Dans le bilan de 68, l’opinion retient d’abord la conquête de nouveaux droits sociaux (43 %), le «mouvement populaire» (41 %), loin devant la question des valeurs ou l’évolution des rapports entre individus (20 %).
[2] Alain Krivine : «Le mouvement de Mai 68 n’avait pas de crédibilité politique», Le Parisien, 9 mars 2018.このインタビューでクリヴィヌは次のように語っている。Aucun de nous ne l’a envisagé. Tout simplement car ce n’était pas crédible. Il y a eu un espoir, une tentative de prise de pouvoir par Mitterrand et Mendès France, mais elle a échoué. S’est ensuivie la victoire des gaullistes en juin, à l’issue des législatives anticipées, et notre organisation a été interdite.
[3] « Sartre 1905 – 1980 », par Annie Cohen-Solal, coll. Folio/essais, Gallimard, 1999

 

第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

第3話 「5月革命」に関する評価の変遷 – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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第3話 「5月革命」に関する評価の変遷 – 連載『5月革命 50周年』

「5月革命」に関する評価の変遷

 1968年の国民議会選挙に続いて,翌1969年に,ド・ゴールの辞任を受けて実施された大統領選挙でも,左翼勢力の分裂が保守派の大勝をもたらした。左翼からは社会党のドフェールGaston Defferre,共産党のデュクロJacques Duclos,統一社会党Parti socialiste unifié=PSUのロカールMichel Rocard,共産主義同盟Ligue communisteのクリヴィヌAlain Krivineが立候補したが,最大の票数を獲得したデュクロでさえ得票率は21.27%にとどまり,中道勢力に担ぎ出された,全国的にはほぼ無名の上院議長ポエールAlain Poherの23.31%に及ばなかった。こうして,決選投票はド・ゴール派のポンピドゥーと中道のポエールの間で争われることになり,両者のいずれにも票を投じることを拒んだデュクロはC’est blanc bonnet ou bonnet blancという有名な比喩を用いて,共産党支持者に決選投票のボイコットを呼びかけた。

1.-「反68年思想Pensée anti-68」

 左翼,なかんずく極左「集団」の間に,いわば近親憎悪ともいうべき意見の対立が生まれ,日本の新左翼における「内ゲバ」に似たような関係が避けられなかったことも,68年に対する評価に大きな影響を与えた。とくに1970年代には,「革命」に何らかの形で直接にかかわった人々の間に,その結果に対する幻滅が生まれ,そのうちのかなりのものが「反68年」思想とも呼ばれる道をたどることになった。とくに有名なのは,1974年に仏訳が出版されたソ連の作家ソルジェニーツィンAlexandre Soljenitsyneの『収容所群島L’archipel du Goulag』に影響を受けて,ソ連の強権的な全体主義を強く批判して,「マルクスは死んだMarx est mort」(哲学者ブノワJean-Marie Benoistによる)と断言した「新哲学者nouveaux philosophes」たちである。代表的な思想家としては,グリュックスマンAndré Glucksmannとベルナール=アンリ・レヴィBernard-Henri Lévyを挙げることができる。グリュックスマンは元毛沢東主義者として知られるが,レヴィとともにテレビの書評番組などに頻繁に登場して,マスコミの寵児になった。その他,同じくかつては毛沢東派に属した哲学者フィンケルクロートAlain Finkierklautや社会学者で作家のル・ゴフJean-Pierre Le Goff,さらにはかつてキューバ革命の英雄フィデル・カストロやチェ・ゲバラと行動を共にしたレジス・ドブレRégis Debrayなどが,マスコミを舞台に論壇に大きな影響を及ぼしていた。

 「5月革命」に対する批判は,相互に相いれないものまで含めて,多岐にわたっている。『リベラシオン』紙の編集主幹ジョフランLaurent Joffrinが2018年5月1日付同紙に「68年5月 真の解放に対するいわれない非難Mai 68 : les faux procès d’une vraie libération」と題する長文の記事で,「5月革命」批判の主なものを取り上げて,反論している。それを列挙してみよう。

 -「68年5月は,リバタリアン的で消費主義的な快楽主義を掲げて,…フランス社会…を支えていた共通の価値観を壊滅させた,個人主義的,利己的な反乱であった。Mai 68 fut une révolte individualiste et narcissique qui a dissous au nom d’un hédonisme libertaire et consumériste les valeurs communes …de la société française.」

 -「68年5月は,大学を混乱と破産状態に追い込んだ学生たちによる,危険でアナーキーな反乱であった。Mai 68 fut…une révolte étudiante délétère et anarchique qui a plongé l’université dans le désordre et la déconfiture.」

 -「68年5月は暴力的なマルクス主義運動であり,偏狭な少数派を利するために民主主義の秩序を転覆しようとするものであった。Mai 68 fut un mouvement marxiste et violent qui a tenté de renverser l’ordre démocratique au profit de minorités sectaires ….」

 -「68年5月は,フランスの共和主義に基づく構造を破壊しようとする,無目的で虚無的な反乱であった。Mai 68 fut une révolte nihiliste et sans but, qui a cherché à détruire les structures républicaines de la France.」

 -「68年5月は親の権威を傷つけ,家族を分裂させた。Mai 68 a abaissé l’autorité parentale et désagrégé la famille….」

 -「68年5月は学校を崩壊させ,学問と価値の伝達を破滅に導いた。Mai 68 a détruit l’école et ruiné la transmission du savoir et des valeurs.」

 -「68年5月は国家(ナシオン)に対する攻撃であり,冷徹なグローバル化の前兆であった。Mai 68 fut un attentat contre la nation et un prélude à la mondialisation sans âme….」

 -「68年5月は資本主義の狡猾さを示すもので,社会のネオリベラルなアメリカ化を決定的に促すものであった。Mai 68 fut…une ruse du capital et un adjuvant décisif à l’américanisation libérale de la société.」

-「68年5月は保守の勝利であった。保守は5月事件の結果,以前にも増して力を得た。Mai 68 fut une victoire de la droite qui est sortie renforcée des événements.」

 -「68年5月の指導者は毛沢東服を捨ててロータリークラブの会員になった。これは指導者に裏切られた革命であった。Mai 68 fut une révolution trahie par ses leaders qui sont passés «du col Mao au Rotary Club».」

 これらの非難そのものについては,とくに反論の内容を紹介するまでもないだろう。ただ,時事フランス語という観点から覚えておきたいことがいくつかある。第1には,anarchisteとlibertaireという語についてである。これら二つの語は,少なくとも1980-90年代までのフランスに限って言えば,ほぼ同義語として理解してよいのだが,1980年代以降,とくに経済活動のグローバル化が進んで,ネオリベラリズムが主流になるとともに,libertaireは国家や共同体による一切の制約を拒否するとともに,あるいはそれ以上に,企業と個人の自由を優先する,アメリカで「リバタリアン」と呼ばれる人々を指すようになった。第2は,「5月革命」に参加したものの中で,のちに「転向者」になった人々がしばしば口にする言葉にboboというものがある。これはbourgeoisとbohémienを結び付けて縮めたもので,「革命」のうちでも快楽的で利己的な側面のみを取り上げて,「革命」そのものを「お坊ちゃまfils à papa」たちの無責任で一時的な活動とみなそうとするものである。こうした非難をなすものはまた,「5月革命」が「セックス革命révolution sexuelle」だったと断言することがある。確かに,フランスの学生運動や労働運動の中で女性の存在が表面に現れることはそれまでほとんどなかった。とはいえ,68年当時,学生デモの中に見られた女性たちが,公の場で積極的に発言することは極めてまれであった。第3は,「学生の」を意味する形容詞として,68年当時はestudiantinという語が多く用いられていたのに対して,その後はétudiantのほうがよりしばしば使用されるようになったことを記しておきたい。また,「社会の」を意味する形容詞にも変化が見られた。socialとsociétalという二つの語があるが,後者はPRによれば1970年代になって初めて日常言語に登場したようである。これは単に「社会の」というよりは,「社会制度に関する,社会的な価値観に関して」というニュアンスを持つもので,AntidoteはLa France a connu de profondes mutations sociétales au cours du dernier demi-siècle (Le Monde)という用例を挙げている。

 『ル・モンド』は2018年3月15日号に,『反68年思想La pensée anti-68』の著者でパリ第4大学教授のセルジュ・オディエSerge Audierのインタビューを掲載している。それはジョフランの記事に取り上げられている「反68年思想」に多くのことを付け加えているわけではないが,1980年代の半ばに登場してきたリュック・フェリLuc Ferryやアラン・ルノーAlain Renaudなどが,「68年思想」に対して,それが「現代の反ヒューマニズムantihumanisme contemporain」であると批判した事実を想起していることは,注目されるべきである。これについてオディエは,「(フェリらの)批判は未整理であり,一貫性に欠けるいろいろな要素が雑然とぶつかり合っているdes éléments peu cohérents se sont télescopés dans ce réquisitoire confus」と断じている。

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Robert Schediwy

-世代交代と評価の客観化

 現在でもなお,「68年世代は存在するのかExiste-t-il une « génération 68 » ?」(2018年3月16日付『ル・モンド』に掲載された記事のタイトル)という問いが出される。ここでいう「68年世代(soixante-huitard(e)ともいうが,これは「年齢」だけの問題ではなく,「5月革命」に直接参加したかどうかという意味も含んでいる)」が,パリの学生街であるカルチエ・ラタンを主な生活の舞台として,68年5月のある日,ソルボンヌの中庭を祭りと百家争鳴の討論の場にした学生たちだけを指しているのなら,それは正確ではない。なぜなら,「5月革命」はパリで始まったにしても,全国に波及して,労働者や農民をも巻き込んで,最も多い時には1000万人以上が参加したゼネストに発展したものだからである。

社会層も年代も異なる人々を数週間にわたって,国中で熱狂の渦に巻き込んだ運動である「5月革命」を,特定の人物像に閉じ込めることは不可能である。それゆえ,それに参加したいろいろな思想を持ち,様々な社会層に属する人たちが,それぞれの生きた体験に基づいて描く「5月革命」が,一つの評価や単一の分析に行き着かないのも当然である。とはいえ,1970年代から1990年代までは,直接の参加者が,もっぱら個人の経験に基づいて,しかもしばしば,「革命後」の深い幻滅に導かれて,全面的な否定とまではいわないまでも,きわめて批判的な68年像を伝えてきたことは否定できない。また,「68年世代」のすぐ後に続いた世代が,年長者に対するある意味で自然な反発を前面に出して,「5月革命」の否定的な側面にスポットライトを当てたことも確かだろう。たとえば,1955年生まれの元大統領ニコラ・サルコジは,2007年の大統領選挙に先立つ運動期間中,「68年5月は知的・道徳的な相対主義をわれわれに押し付けたmai 68 nous avait imposé le relativisme intellectuel et moral」と断言し,選挙で問われることになるのは,「68年5月の遺産を永らえるべきなのか,それともそれを最終的に清算することなのかであるil s’agit de savoir si l’héritage de Mai 68 doit être perpétué ou s’il doit être liquidé une bonne fois pour toutes」と続けた。

「専門家であるか,一つのテーマだけをマニアックに追及する人でない限り,68年5月の40周年を機会に,それを扱った書籍のすべてを読むことは不可能だろうA moins d’être un spécialiste ou un monomaniaque, il sera difficile de lire l’ensemble des publications consacrées à Mai 68, à l’occasion de son quarantième anniversaire」(2008年5月の『ル・モンド・ディプロマティック』)。実際,「68年5月を記念する本が最近だけでも100冊近く出版されているPrès d’une centaine de livres viennent d’être publiés en France pour « fêter » Mai 68」(同上)。とはいえ,当時フランス全国を麻痺させたストに参加した何百万の人々の記憶が,やっと「5月革命」の意義をめぐる論争の中にその声を反映させられるようになったのは,比較的最近のことである。いうまでもなく,日本でもフランスの「5月革命」に関する多くの書籍や考察が出版されている。なかでも西川長夫による『フランスの解体? もう一つの国民国家論』(人文書院,1999)と『パリ5月革命 私論 転換点としての68年』(平凡新書,2011)を挙げておこう。

2010年代に入ってからようやく,68年5月が正当な研究の対象になった。言い換えると,客観的な歴史研究が進められるにつれて,「68年」は単数ではなく複数形で語られるべきだと考えられるようになった。確かに,「生きた記憶mémoire viveから文化的記憶mémoire culturelle」に変わるためには少なくとも40年ぐらいが必要だという意見がある。たとえば『ル・モンド』の「論争」欄担当記者ニコラ・ヴェイユNicolas Weillが,ドイツのエジプト学者ヤン・アスマンの考えを伝えながら,次のように書いている。Il est vrai que la période de quarante ans n’est pas une étape comme les autres du point de vue des rythmes de la mémoire collective. Pour le philosophe et égyptologue allemand Jan Asmann, qui a passé les phénomènes mémoriels aux cribles de plusieurs contextes, quatre décennies correspondent aux débuts de la transformation de la “mémoire vive” (celle des acteurs et des témoins) en “mémoire culturelle” (publique et historique). « Les années 1968 sans folklore ni pavés », par Nicolas Weill, Le Monde, 25 février 2008。

『ル・モンド』はすでに2008年に「反68年5月思想は枯渇しているLa pensée anti-Mai 68 s’épuise」と題する記事を掲載し,「(1980-90年代に見られた)1968年と絶縁しようする奇妙な情熱は,事実の歪曲を前提としているcette étrange passion à se dépendre de Mai 68 passe par la déformation」と書いている。それに続けて,筆者である同紙の記者ヴェイユは,「この戯画化された68年像は,その後に政権を握った保守派の言説を育てたcette caricature fait le terreau du discours futur de la droite au pouvoir」が,「近年の歴史資料研究がそれに歯止めをかけたcette tendance de fond est contrecarrée depuis quelques années par les progrès de l’historiographie」と指摘したうえで,要約すると次のように論理を展開している。「共産主義の失敗がベルリンの壁崩壊によって明白となった後,左翼の思想家や哲学者たちはネオリベラリズム批判を再構築する作業に取り組み始めたが,その際に68年の経験が非暴力主義に基づいた反体制闘争のモデルになりうるものと捉えることになった。アレクシス・ド・トックヴィルAlexis de Tocquevilleやレモン・アロンRaymond Aronに代表されるフランスのリベラリズム思想が,2000年代に入ってフランスの衰退を強調する悲観論déclinismeにはまり込んでいた一方で,フランスのアラン・バディユーAlain Badiou,イタリアのアントニオ・ネグリAntonio Negri,アメリカのマイケル・ハードMichael Hardtといった政治哲学者が,自由や社会正義,政治的アンガージュマンなどをテーマに精力的な著作活動を展開している[2]」。

[2] この部分は原文を大幅に要約している。原文は次の通り。Or cette tendance de fond est contrecarrée depuis quelques années par les progrès de l’historiographie, qui ont donné de Mai 68 une tout autre image que celle d’un événement dont le message serait à rechercher dans les mœurs ou dans un effet de connivence générationnelle. Ce renouvellement s’accompagne d’un dynamisme de la pensée radicale, lequel se traduit à son tour par une efflorescence de maisons d’édition et de revues, parfois animées par de très jeunes gens. Depuis la chute du Mur de Berlin, l’extrême gauche se trouve en effet confrontée à un défi qui stimule sa productivité théorique : celui de reconstruire une critique du néolibéralisme après l’échec du communisme, tout en faisant l’économie de la violence. Sur ce point-là, la lutte à fleurets relativement mouchetés de Mai 68 peut servir de modèle alternatif. De même que les mouvements de libération collective des minorités, qui en sont plus ou moins issus, battent en brèche l’idée que le legs de 1968 puisse se réduire à l’émergence d’un néobourgeois individualiste pressé de ” jouir sans entraves “.
Nul doute que ces nœuds-là stimulent les théoriciens de l’extrême gauche et suscitent de ce côté-là un bouillonnement. Il contraste avec l’ambiance crépusculaire qui semble s’être emparée de la réflexion libérale qui se réclame d’Aron et de Tocqueville. Alors qu’on voit des philosophes comme le Français Alain Badiou, les Italiens Antonio Negri ou Giorgio Agamben, l’Américain Michael Hardt ou le Slovène Slavoj Zizek constituer, parfois de façon brouillonne, une nouvelle constellation de philosophie politique critique, la tradition libérale en France s’est comme figée sur sa posture mélancolique ou décliniste. Quand elle n’est pas devenue franchement réactionnaire ! (« La pensée anti-Mai 68 s’épuise », par Nicolas Weill, Le Monde, 26 avril 2008

続く(次回は9月28日更新予定)
第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

最終話 – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

1.-学生運動から労働者との合流まで

いうまでもないが,「5月革命」が5月になって突然はじまったわけではない。先に記した3月22日のナンテールにおける事件が,その後の学生による「異議申し立てcontestation」運動の発端になった。その後,4月にはアメリカでキング牧師の暗殺が全米に抗議活動を呼び起こしたし,チェコの「プラハの春」が本格化する一方で,ドイツでは学生運動の指導者の1人であったドゥチュケRudi Dutschkeが狙撃されたことに対する抗議デモが広がった。フランスでもナンテールの混乱が続くかたわら,トゥールーズやストラスブールなどでも様々な衝突が発生し,4月27日には,「赤毛のダニーDany le rouge」と呼ばれて,「5月革命」の指導者の中でももっとも広く名を知られるようになったコーン=ベンディットDaniel Cohn-Benditが警察に拘束されるなど,学生と当局,さらには極右団体との緊張が高まっていた。そうした中,1954年のアルジェリア独立戦争勃発以来禁止されてきたメーデーのパリ市内デモ行進が,共産党Parti communiste français=PCFと同党の強い影響下にある労働組合労働総同盟Confédération générale du travail=CGTの呼びかけで,14年ぶりに復活した。そしてその2日後,5月3日にパリ大学本部が置かれているソルボンヌに警官隊が導入されて,排除された学生と警察との衝突が周辺街路に及んで,大混乱を呼んだ。この時には600人近い学生が検挙され,それに抗議するため高等教育教員組合Snesupなどの呼びかけで無期限ストが決定された。これが真の意味で「5月革命」の開始を告げたといってよいだろう。その後,カルチエ・ラタンのほぼ中央に位置する国立劇場オデオン座théâtre national de l’Odéonの占拠とか,街頭における高校生を含む学生デモ隊と治安当局の激しい衝突などがラジオとテレビで連日実況中継され,世論に大きな衝撃を与えた。

政府当局の強硬姿勢が目立つ中,5月10日の夜,街路の各所に設けられたバリケードを挟んで,道路の舗装材として用いられていた敷石をはがして武器とする学生と,催涙ガスや警棒を使用する警官隊の間で大規模な衝突が発生して,「バリケードの夜nuit des barricades」として歴史に記録されることになった。その際には,重傷を負って病院に収容されたものが350人を超えた。この夜のデモに参加したものの数は警察発表でさえ20万人といわれている。

当時はなお,フランスの左翼・革新勢力の中核をなしていた共産党とCGTは,学生運動はもちろん,それに対して次第にはっきりと連帯を見せ始めていた労働者たちの動きに ,一定の枠をはめようと努めた節がある。しかし,それは決して成功していたとは言えない。それどころか5月13日(ド・ゴールが植民地アルジェリアの存続を主張する軍部に担がれて政権に復帰するきっかけとなった,1958年5月の駐アルジェリア軍の蜂起から10年となる日)には,パリだけで主催者発表100万人規模のデモが行われ,多くの産業施設がストに突入した結果,全土が麻痺状態に近くなった。この日から5月27日へかけて,労働者の自主的なストが広がり,参加者は800万とも1000万ともいわれる,フランス史上で空前絶後の数に達した。学生運動と労働者の闘争が一体化していくことは,当時は単に「合流jonction」といったが,2018年の春,フランス国鉄やエール・フランスの長期ストに加えて,各地の大学で学生による校舎占拠が広がった時,マクロン大統領をはじめとする政府当局は,反政府運動の収斂convergence」は見られないと断言した。

全国に広がり,激化するゼネストを前にして,政府は一貫して強硬姿勢を貫いているように見えた。たとえば,ルーマニア訪問を1日短縮して5月19日に急遽帰国したド・ゴール将軍が,同日の閣議で「改革はよいが,混乱はだめだla réforme, oui, la chienlit, non」と言明したと伝えられたが,これは政府が妥協を拒否していることの表れとみられた[1]

[1] ちなみに,このchienlitという語(語源はchier en litと言われている)は16世紀の有名な作家フランソワ・ラブレーFrançois Rabelaisによる『ガルガンチュアGargantua』ですでに用いられている“由緒ある”単語だが,その本来の意味もあいまいで,ヴィクトル・ユーゴーVictor Hugoなどの用例が知られているとはいえ,ド・ゴールによる使用が伝えられるまではきわめて珍しい語とされていた。その後,2015年10月にエール・フランス社の幹部が労使交渉の行き詰まりにいら立った組合員に暴行を受けた時,野党共和党の党首ニコラ・サルコジが再びchienlitという語を用いて政府の無力を揶揄した。ただし,この時には一部のマスコミやインターネット上で,元大統領の言語感覚を皮肉る記事や投稿が相次いだ。

とはいえ,このド・ゴールの発言を記者団に公表した当時の首相ポンピドゥーが,どちらかというと柔軟な態度をとっていたのに対して,ド・ゴール自身は強硬策を断固として主張していたと推測させる材料もある。なかんずく,ポンピドゥーは企業経営者,労働組合の代表をパリ7区のグルネル街rue de Grenelleにある労働省に集め,政府を含めた3者交渉を主宰していた。また,5月28日にド・ゴールが首相にも一言も漏らさず,隠密裏にドイツへ赴いたことと,そこでかつてアルジェの反政府蜂起を指揮したマシュ将軍と会談したことは,ポンピドゥーにとって,ド・ゴールとの間に長い間存在してきた信頼のきずなを傷つけるものに見えた。こうして,5月30日,ド・ゴールと会談した際,ポンピドゥーは辞表を胸に大統領府が置かれているエリゼー宮を訪れたといわれている。実際,ポンピドゥー自身は共産党とCGTを交渉相手とすることで,混乱を収拾しようとしていたようである。そして,5月27日に発表された「グルネル合意accords de Grenelle」

に対する賛否について,反政府勢力の間で明白な意見対立が明らかになった。なかでも学生運動の内部では,「3月22日運動Mouvement du 22 mars」を代表するコーン=ベンディットとフランス全国学生連盟Union nationale des étudiants de France=UNEFの副会長ジャック・ソーヴァジョJacques Sauvageotの間に不和の兆しが見え始めた。ただし,6月の初めまでは各地でストに参加している労働者がその受け入れを拒否していた。

それでも,全職種共通最低保証賃金salaire minimum interprofessionnel garanti=SMIG(その後「全職種共通最低成長賃金salaire minimum interprofessionnel de croissance=SMICと改称された)の35%に及ぶ大幅引き上げ,法定労働時間の短縮,労働者の権利拡大などを定めたグルネル協定が,「5月革命」に大きな転機をもたらしたことは疑えない。また,1968年11月に成立した高等教育基本法loi d’orientation de l’enseignement supérieur(その起草を主導した当時の文部大臣エドガール・フォールEdgar Faureの名をとって「フォール法loi Faure」と呼ばれる)も,高等教育機関の自治を強化するかたわら,その大規模な再編成を定めていた。たとえばそれまで全国に23しかなかった国立大学は68の大学に再編されたし,単一の組織であったパリ大学は,一挙に13に分割された。また,各大学内の学部facultéは「教育研究単位unité d’enseignement et de recherche=UER」と改名された。


2.-「革命」の終焉

共産党とCGTは明らかにゼネストを収束させて,自らの主導権の下でド・ゴール大統領とポンピドゥー首相が導く保守政権を転覆させることを目指していた。5月29日には,CGTが政府の転覆を呼び掛けて大規模なデモを主催したが,パリにおける参加者は80万人に達したともいわれた。一方,時を同じくして開催された閣議の後,ド・ゴールが一時行方不明になったと報道された。実はその時,大統領はドイツのバーデン=バーデンへ飛び,1958年にアルジェリアの反乱軍を指揮したマシュ将軍général Jacques Massuと会談した後,夕刻にフランス東部の小村コロンベ=レ=ドゥー=エグリーズColombey-les-deux-Eglisesにある自宅へ戻っていたのである。この会談で何が話されたか。諸説あるが,「ゴーリスムの記録」を名乗るウェブ・サイト(http://archives.gaullisme.fr/)によれば,意気消沈していた大統領をマシュ将軍が元気づけたという。ただし,その場ではいかなる形でも,国内の混乱に対処するために軍の介入を話題とすることはなかった,と言われている。いずれにしろ,翌5月30日,パリへ戻ったド・ゴールがラジオで国民議会の解散と,繰り上げ国民議会選挙実施を発表すると,それに応えて,同日中に大統領と政府を支持するデモがパリのシャン=ゼリゼを埋め尽くし,100万もの参加者を数えた。

確かに,6月5,6日までは各地で工場や職場の占拠が続いていた。しかし,5月30日が「68年5月」における学生と労働者の反体制運動に初めて歯止めをかけ,ド・ゴールを支持する体制側の反転攻勢の開始を告げたことは明らかである。政府側は6月6日にパリ近郊フランFlinにあるルノーの工場へ警官隊を導入して,実力でストを中止に追い込んだばかりでなく,同10日にはソショーSochauxのプジョー工場で機動隊Compagnie république de sécurité=CRSとスト中の労働者の衝突が18時間に及んで,死者1人を出したほか,負傷者も多数に上った。

同日,繰り上げ国民議会選挙が公示され,その2日後には選挙期間中,街頭におけるあらゆるデモ行動が禁止されただけでなく,一部の極左団体が解散を命じられた。それにもかかわらず,学生や労働者の運動が直ちに沈静化したわけではない。しかし,6月5日にパリの地下鉄Régie autonome des transports parisiens=RATPでストが一部中止され,部分的にではあるが運行が始まったのに続いて,12日には高等学校で授業が再開されたし,19日にはルノーの工場で,さらに24日はプジョーの工場で操業が再開された。

そして,6月23,30日に実施された国民議会選挙では,「5月危機」がもたらした混乱の責任を問われただけでなく,内部における意見対立に悩まされた左翼諸党・諸勢力を抑えて,保守派が記録的な大勝を収めた。ド・ゴールを支持する共和国防衛連合Union pour la défense de la République=UDRと独立共和党Républicains indépendantsが,全議席485のうち358を獲得したのである。確かに,得票率でみれば両党の合計が43.6%にとどまったのに対して,共産党が20%,民主社会左翼連合Fédération de la gauche socialiste et démocratique=FGSDが16.5%と,それほど大きな差とは言えないが,第5共和政独特の選挙制度のため,分裂を乗り越えられない左翼は国民議会では壊滅状態となった。

こうして,「退屈していた」フランスを2か月にわたって揺るがせ,麻痺させた学生と労働者の運動は,政府の実力行使に次々と鎮圧され,多くの活動家が逮捕されたり,職場を追放されたりした。一見,体制側の完勝とさえいえる形で終わりを迎えた「5月革命」だが,しかし,その後のフランスに,社会的にも思想的にも消すことのできない深い影響を残し,現在でも残し続けている。

続く(次回は9月14日*更新予定)

*【訂正とお詫び】本記事掲載時に更新日程記載の誤りがありました為、訂正いたしました。

第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

第3話 「5月革命」に関する評価の変遷 – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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8/24(金)まで受付延長!「逐次通訳トレーニング」今期テーマは“日本画”、“海洋プラスティックごみ”に決定

8/25よりスタートする夏学期「逐次通訳トレーニング」(B日程 全5回 7/7、8/25、9/1、9/8、9/15)では受講者を若干名追加募集しております。※7/7のオリエンテーション回は動画による配信

テーマは通訳案内士の方にもニーズの高い“日本画”、そして、いま世界中で注目されている“海洋プラスティックごみ”に決まりました。どちらも、これからの通訳の現場において必要性がでてくる分野の知識や表現を学ぶことができます。

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直前まで申し込み受付いたしますが、資料をしっかり読んで授業に参加したい方はお早めにご連絡ください!

【募集要項】「逐次通訳トレーニング」
【日程】7/7、8/25、9/1、9/8、9/15 土曜日/13:00-15:00

全5回 ※7/7のオリエンテーション回は動画による配信
【定員】8名(最少催行人数4名)
【受講料】30,000円
【講師】ロラン·ルコック/野原道広
【申込方法】
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第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

『5月革命 50周年』

彌永康夫

1968年5月にフランス全土をほぼ1か月にわたって麻痺させた「事件événements」は,日本では今でも「5月革命révolution de mai」と呼ばれている。今年はそれからすでに半世紀がたったことになり,年初からフランスのマスコミでは,数多くの特集が組まれている。ただし,少なくともここ20年以上,フランスでこの関連で「革命」という語が用いられることは例外的である。「事件(出来事)」さえも省いて,単に「68年5月Mai 68」と呼ぶのが最も一般的である。

ところで,私がフランス語の授業を担当し始めて間もない2000年代の初めころ,仏文和訳の授業で「5月革命」をテーマに取り上げたことがあった。ただし私には,聴講生の大半にとってこれは歴史上の事件ではあっても,その内容も意味も漠然としか知らないか,まったく未知のものであり,身近に感じるなどありえない,ということには考えも及ばなかった。そのことに気づいて愕然とした記憶がある。

それゆえ,まずは「5月革命」がどのようなものであったかを振り返ってみることにしよう。もっとも,そのためには,当時のフランスと世界の全体的な状況を大まかにではあれ,想起しておくことが必要だろう。

1968年の国際・国内情勢

1.-「フランスは退屈している」

1968年3月15日付の『ル・モンド』紙上に,同紙の政治部長で,フランスの内政に関する鋭い分析で知られたピエール・ヴィアンソン=ポンテPierre Viansson-Pontéが署名した,「フランスが退屈するとき…Quand la France s’ennuie …」と題する記事が掲載された。その書き出し部分と最後の数行を引用してみよう。

「現在,わが国の政治情勢を特徴づけているもの,それは退屈である。フランス人は退屈している。世界を揺るがせている激動に,フランス人は直接にも,間接にも加わっていないのである。(…)今やほぼ本土だけになった小さなフランスは,本当に不幸ではなく,また本当に繁栄もしていない。すべての国と平和な関係を保っているが,世界規模の出来事に大きな影響力を及ぼせる立場にもない。こうしたフランスにおいては,福祉と成長と同じくらい,熱意と想像力が求められているのである。それは確かに容易なことではない…しかしこの必要条件が満たされないと,無感覚症状が全身衰弱を引き起こしかねない。そして,過去にも見られたことだが,極端に言えば,一つの国が退屈ゆえに死滅することもありうる。Ce qui caractérise actuellement notre vie publique, c’est l’ennui. Les Français s’ennuient.  Ils ne participent ni de près ni de loin aux grandes convulsions qui secouent le monde…. Dans une petite France presque réduite à l’hexagone, qui n’est pas vraiment malheureuse ni vraiment prospère, en paix avec tout le monde, sans grande prise sur les événements mondiaux, l’ardeur et l’imagination sont aussi nécessaires que le bien-être et l’expansion… Ce n’est certes pas facile. S’il (cet impératif) n’est pas satisfait, l’anesthésie risque de provoquer la consomption. Et à la limite, cela s’est vu, un pays peut aussi périr d’ennui.」

この記事が出た1週間後の3月22日に,パリ大学ナンテール分校で学生による大学管理棟の占拠が始まり,これが「5月革命」の出発点となったことを考えると,ヴィアンソン=ポンテの分析力に疑問符が付くといっているだけでは済まないものを感じる。しかし,当時から半世紀が経過した2018年4月,『ル・モンド』がホームページに掲載した「3分で説明する68年5月の事件」と題したビデオでも,「フランスは退屈している」という言葉が最初に出てくる。そこでまずは,当時のフランスがどのような状況にあったか,簡単に思い出してみよう。

第2次世界大戦中,ド・ゴールCharles de Gaulle将軍はナチス・ドイツに占領されたフランスでレジスタンス運動の強力な指導者となり,大戦後の数か月間,解放されたフランスで臨時政府を率いた。しかし彼は,新しい憲法草案について主要政党との間に見解の相違があることを理由に,1946年1月に辞職を表明した。実を言えば,レジスタンス運動の英雄として世論の強い支持を期待できると考えて,すぐにも政権の座に呼び戻されると信じてとった行動だったが,その期待は裏切られて10年以上にわたる雌伏の時期(「砂漠横断traversée du désert」と呼ばれる)に耐えることになった。政権に復帰できたのはやっと1958年5月になってからだった。アルジェリア独立戦争で劣勢に立たされていた軍指導部が,アルジェで反政府蜂起(いろいろな呼び方があるが,マスコミではputsch d’Algerというのが一般的である)の強い希望に応えたものだった。しかしひとたび政権を握ったド・ゴールは,アルジェリアの独立を認めて戦争を終わらせる政策をとり,当初は彼を支持した軍部や極右勢力を敵に回すようになり,1962年には正式に独立アルジェリアが誕生した。それに対して,「フランスのアルジェリアAlgérie française」に固執する「秘密武装組織Organisation armée secrète=OAS」がテロ活動を展開したため,暗殺される危機感を抱いたド・ゴールは,全国民が参加する直接普通選挙suffrage universel directによる大統領選出を定めた憲法改定を決め,1962年秋の国民投票によってそれを承認させた。

1946年から1958年までの12年間続いた第4共和政下で,フランスでは「内閣の交代」が26回行われた。もっとも,同じ期間に首相の座に就いたのは18人であり,たとえ政府を率いなかったとしても内閣の主要ポストを複数の内閣の下で占めた政治家も多かった。それに対して,政権に復帰したド・ゴールが成立させた第5共和政は,1958年から1968年5月までの10年間,大統領はド・ゴール1人,首相はミシェル・ドブレMichel Debréとジョルジュ・ポンピドゥーGeorges Pompidouの2人しか数えない,超安定政権であった。とくに,当初は強権政治,さらに言えば独裁政治に走る危険を指摘されていたド・ゴールが,アルジェリア独立戦争という特異な状況下で反対勢力を押さえつけていたことは否めないとしても,1962年の憲法改定以降は,内政が安定していたのは確かである。

それと並行して,第2次世界大戦の終了後,「栄光の30年les trente Glorieuses」と呼ばれる高度経済成長期を経験したフランスは,戦争の荒廃から立ち直っただけでなく,急速な農業離れによる労働力の都市流入を利した製造業の目覚ましい発展の恩恵を受けるかたわら,レジスタンス時代に力をつけた左翼勢力の影響力が強かった戦後初期に基礎が築かれた社会福祉の充実とも相まって,1960年代の半ばごろには,政治の安定と経済の成長の中で「退屈」し始めていたのかもしれない。

もっとも,これはあくまで表面的な分析にとどまる。実際,アルジェリア戦争時代の反戦運動や,逆に軍部の反乱やその受け皿となった極右勢力などが,いずれもなお燻ぶっていた。そうした中で,思想・文化面を見ると,戦後すぐに一世を風靡したサルトルJean-Paul SartreとボーヴォワールSimone de Beauvoirに代表される実存主義existentialismeはすでに衰退し,そのあとにクロード・レヴィ=ストロースClaude Lévi-Straussを旗頭とする構造主義structuralismeや,そのあとをうかがうポスト構造主義がpoststructuralisme主流をなす一方,共産党に代表される伝統左翼を批判する多様な思想グループが乱立していた。

1940年代後半の「ベビーブームbaby-boom」世代が中等教育から大学へと進む時期が,ちょうど1960年代の終わりと重なった。「教育の民主化démocratisation de l’enseignement」あるいは「大衆化massification」が急速に進んでいるというのに,教育の内容はもちろん,中・高校や大学の施設が全く時代に追い付いていなかったうえに,高等教育を卒業しても,魅力ある就職先を見つけることも難しい,「閉塞社会société bloquée」が支配していた。かくして,高校生や大学生は「退屈する」どころか,鬱積する不満を抱えていた。こうして,伝統的な制度や権威が外見上は健在であるのに,それに対する不満がとくに若い世代の間で内向し,蓄積されていた。政治はそうした不満を反映するどころか,その存在にさえ気づいていないかのようにみえたし,労働組合などの既存組織も世代間の断絶を乗り越えられないでいた。

2.世界では

日本における「神田カルチエ・ラタン」を思い出すまでもなく,1968年という年はアメリカをはじめとして,アジア,西ヨーロッパ,東ヨーロッパ,中東など,世界のほとんどあらゆる地域で様々な形で戦争や内紛,反体制運動が展開された。

たとえばアメリカでは,ベトナム戦争反対運動が各地の大学に広がる一方で,フォークソングが若者の間に広く歌われ,ヒッピーたちが既存社会秩序の外側で独自の「コミュニティー」を形作ろうとしていた。そしてまた,公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キングMartin-Luther King牧師と,ケネディ元大統領の弟で民主党の有力な次期大統領候補であったロバート・ケネディRobert Kennedy上院議員が,それぞれ4月4日にメンフィス,そして6月6日ロスアンゼルスで暗殺されて,社会全体に大きな衝撃を与えた。

アジアでは,1967年に始まった中国の「文化大革命grande révolution culturelle」が最高潮に達していた。実際には,毛沢東派と「実権派」の間の権力争いととらえるべきなのだろうが,当時は,多くの若者たちの目に既成の秩序と権力を打倒する反体制の動きととらえられ,「造反有理(定着した仏訳はないようだ。毛沢東主義系のカナダ革命的共産党のパンフレットではon a raison de se révolterと訳している)」という考え方が共感を持って迎えられた。他方,1964年にアメリカが本格的な軍事介入を始めたベトナムでは,1968年1月に民族解放戦線Front national de libération=FNL(Viet Cong)によるテト攻勢Offensive du Têtが戦局に大きな転機をもたらした。関係国間の水面下の交渉が続いて,同年5月13日からパリで和平会談が開始されることになっていた。

ヨーロッパでは,1968年2月にチェコスロバキアでソ連一辺倒の共産党と政府に反対する「プラハの春printemps de Prague」の動きが始まる一方,イタリアのローマでは学生と警官隊の間で激しい衝突が発生し,5月ごろまで全国で学生による大学建物の占拠などが続いた。さらに,当時は共産党政権のもとにあった東ドイツで特異な地位を占めていたベルリンや,フランコ体制下にあったスペインでも,学生による反政府運動が政権側の弾圧に直面した。

中東に目を向けると,前年1967年5月に「第3次中東戦争troisième guerre du Moyen-Orient」に勝利したイスラエルが,パレスチナ全域をはじめ,シナイ半島やゴラン高原などを含めて,占領地territoires occupésを一挙に4倍に拡大して,パレスチナ解放機構Organisation de libération palestinienne=OLPのテロ活動を活発化させることになった。

中南米では,やはり前年の1967年10月にキューバ革命の英雄チェ・ゲバラがボリビア政府軍に捕らえられて,裁判も受けずに処刑されていたが,そのことがかえってゲバラの名を高め,彼の影響力を強めることになっていた。さらに,軍事政権に支配されていたブラジルとメキシコでも,春から秋にかけて学生が主導する激しい反体制運動がおこり,軍と警察による厳しい弾圧のために,メキシコでは多数の死者を出す暴動にまで発展した。

こうして,1968年とその前後の世界各地における主な出来事を足早に振り返ってみるだけでも,ヴィアンソン=ポンテの分析とは反対に,当時の世界が第2次大戦後の東西冷戦と,「欧米帝国主義」支配から大きく動き出そうとしていたことがわかる。アメリカは依然として世界最大の軍事大国ではあったが,経済面では日本や西ヨーロッパの高度成長によってその立場を脅かされ始めていたし,ベトナムをはじめとする国外における軍事介入に伴う財政面の重荷のため,それまでドルが保持していた唯一の国際通貨としての地位を失う危険を感じてもいた(1971年8月には,いわゆる「ニクソン・ショックchoc Nixon」をきっかけにドルの金兌換性convertibilité orが停止され,多数の国を巻き込む大規模な通貨レート(平価)見直しréajustement de paritésへとつながった)。

一方,ソ連を盟主とする「東側陣営」は,1940年代の末にすでにユーゴスラビアによって一枚岩体制を崩されていたが,1950年代の末に兆しを見せ始めた中ソ対立querelle sino-soviétiqueによって決定的な打撃を受けていた。そうした中で,米ソをはじめとする国連安保理事会の常任理事国が核兵器を独占できる体制を整える核不拡散条約Traité de non-prolifération (des armes) nucléaire(s)=TNPが1968年に調印され,冷戦に変わる緊張緩和détenteが端緒についたが,ベトナム戦争が終わるには1975年まで待たなければならなかった。

第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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8/25(土)開催「現役通訳者に学ぶ日仏通訳のポイント~ワイン編~」

ワインの基本知識や専門用語にはじまり、通訳の準備方法や現場での心構え、ワインセミナーの構成や押さえておきたいポイントまで、ワイン業界の現場のノウハウを紹介しながらレクチャーします。

講師にはワイン業界の現場はもちろん、カルロス・ゴーン氏の専属通訳も務めた、第一線で活躍の通訳者を迎え、またゲストには東京、京都で開催されたボンジュールフランスの盛況も記憶に新しい、プロヴァンス・ロゼワイン専門の輸入会社ロゼレガンスの代表をお招きした、特別プログラムです。レクチャー後の懇親会ではテイスティングも楽しめます。

【講師】 岡田紀子
1 9 8 1 年より通訳・翻訳者として活動。1 9 9 0 年、在日フランス総領事館経済商務部商務官付通訳兼アシスタント。1 9 9 9 年にはカルロス・ゴーン氏の専属通訳者としても活躍。ワイン以外にも自動車、産業機械他生産技術や医療分野など技術系を得意としており、幅広い分野での通訳経験を有する。クライアントに対するきめ細やかな対応にも定評がある。

【ゲスト】 川口知佐
株式会社ロゼレガンス代表取締役社長、日本ソムリエ協会認定ワインアドバイザー。ロレアル株式会社、カルティエ株式会社を経て、1 9 9 5 年フランスワイン輸入卸会社、株式会社シー・アイ・エイ(現ロゼレガンス)を起業。日本に本物のロゼワイン文化を創りだすべく、「五感の震える」プロヴァンス・ロゼワインの発掘、普及に努めている。 ロゼレガンスHP

【募集要項】「現役通訳者に学ぶ日仏通訳のポイント~ワイン編~」
【日程】8月25日(土)16:00~19:00(懇親会含む)
【定員】15名(最少催行人数8名)
【参加費】5,000円(テイスティング含む、税込)
【会場】エコール・プリモ3階
【講師】岡田紀子(ゲスト 川口知佐)
【申込方法】
件名を「通訳のポイント ワイン編 申し込み」とし、
本文で以下の項目をご記入のうえ、ご連絡ください。
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(写真はプロヴァンスESTANDONの輸出責任者のMatthieu BARRERE氏来日時の岡田さんと川口さん)

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