彌永康夫先生ご逝去のお知らせ

エコール・プリモで時事フランス語の講座を長年にわたりご担当いただいた彌永康夫先生が、1月11日に永眠されました。21日にはご親族のみでの葬送式が執り行われました。

彌永先生は、フランス大使館広報部をご退職後、フランス語講師として後進の育成に尽力され、エコール・プリモでは、フランス主要新聞の読解や時事仏作文の講座などをご担当いただきました。厳しさの中にも常に優しさが満ち、誰に対しても温和な態度で、これまでに培われた専門知識を惜しみなくご教授くださいました。

エコール・プリモの時事仏作文講座から誕生したのが、2011年刊行の『時事フランス語 読解と作文のテクニック』(大修館書店)です。新聞記事の和文仏訳を、テーマの背景知識から文章の作り方まで懇切丁寧に解説した力作で、高い評価が寄せられています。フランス語学習者にとって、先生が残された仕事は、今後もその価値を失うことはありません。

エコール・プリモでのブログ連載記事「彌永康夫が考える時事フランス語への視点」最終話は、来月5日に公開予定です。大修館書店より単行本も近刊の予定です。

生前のご功績に深く感謝するとともに、心からのご冥福をお祈り申し上げます。

「彌永康夫が考える時事フランス語への視点」  https://primotsactualite.wordpress.com/

最終話 – 連載『5月革命 50周年』

「5月革命」と世論調査

「5月革命」の記憶が10年ごとに種々の世論調査の対象になってきたのは,別に驚くことではない。驚くべきは,論壇における知識人たちの評価がきわめて厳しかった1980年代から90年代においても,全体としてみるとフランス人が一貫して,68年5月が社会に及ぼした影響を肯定的に捉えていることである。「革命」から20年たった1988年になされた調査によれば,回答者の60%は68年5月がフランス社会に変化をもたらしたことを認めているばかりか,23%はこの変化が「大きなもの」であったと答えている。そして,調査対象の55%にとって,そうした変化は「むしろ良いもの」だったのに対して,それを「むしろ悪いもの」と考えるのは25%にとどまった。さらに,上にも書いたように,2007年の大統領選挙に際して,保守派の候補者サルコジが「68年の遺産を決定的に清算する」ことを,選挙期間中の重要な論点の一つとして当選したにもかかわらず,2008年にCSA社が行った調査によれば,「68年5月」を肯定的にとらえるフランス人は全体の74%に達し,前年の大統領選挙に際してサルコジに票を投じた人でさえ,65%が肯定的な評価をしているのである(社会党の公認候補であったセゴレーヌ・ロワイヤルSégolène Royalを支持した人たちの間では,この比率は83%に上がる)。

とくに興味深いのは,同じCSAの調査では,「秩序と権威を重視する社会」と「より個人の自由を認める社会」のどちらを好むかという質問に対しては,57%が前者を選び,後者を選んだのは37%でしかなかった,という事実である。また,若いカトリック信者を主な読者とする雑誌『ペルランPèlerin』のためにSofres社が実施した調査でも,68年5月の影響を「良い」,あるいは「むしろ良い」と考えるものが全体の73%で,さらに3%は「非常に良い」と答えている。とはいえ,同じ調査で68年5月の価値観に親近感を覚えるかどうかという質問に対しては,全体の50%が否定的な回答をしているのに対して,肯定的な答えは45%にとどまっている。

最後に,2018年4月,すなわち50周年が近づいたときに実施されたViavoice の調査によれば,「5月の遺産」を積極的にとらえるものが全体の70%にまで達している。この調査を紹介している『リベラシオン』紙(« L’opinion se réjouit sans clivage », par Jonathan Boucher-Petersen, Libération, 1 mai 2018)は,Viavoice社の政治調査部長オーレリアン・プルドムAurélien Preud’hommeの次のような解説を引用している。すなわち,「論壇や政界では68年5月に対する評価が現在でも大きく割れているのに対して,国民の間ではかなり大きなコンセンサスが成立している。事実,68年5月を肯定的に評価するものは左翼支持者の間で88%であるのに対して,中道支持者でも77%,そして極右政党である国民戦線FNの支持者でさえ68%に上っているのである。68年5月を批判する人々は,それをリバタリアンの「ババ・クールbaba cool(ババはヒンドゥー語でパパを意味する。1981年にフランソワ・ルテリエFrançois Leterrier監督が撮影した『ババ・クール,あるいは片が付いたら合図してLes Babas-cool ou Quand tu seras débloqué, fais-moi signe !』による表現で,共同生活を送るヒッピーを指している)」の姿に矮小化しているが,多くのフランス人にとっては,68年5月まず何よりも社会的,政治的な進歩を意味している。確かに調査対象の多くが68年5月を暴力的な運動であったと考えているが(「暴力的」と考える人が47%,「平和的」と答えた人が33%),それでも,当時の政府に親近感を寄せるものは全体の12%に過ぎず,38%は運動参加者に対してより親近感を抱いている[1]」。

 

「5月革命」の遺産

サルコジが「決定的に清算する」とした68年5月の遺産とは何か。当時の反政府運動の主要な指導者のひとりであったクリヴィヌが,2018年3月9日付『ル・パリジアン』紙とのインタビューで,「5月革命で指導的な立場にあった誰一人として,真剣に権力を奪取する用意もなかったし,それが可能だとも考えていなかった[2]」,と認めている。それはおそらく真実だろう。それでなければ,68年6月の繰り上げ総選挙や,翌年のド・ゴール辞職を受けた大統領選挙に際して,左翼陣営が準備不足ゆえの内部対立をさらけ出して,惨敗に終わることはなかったはずである。

政治権力を行使できるか否か,という観点からだけ判断すれば,「5月革命」は失敗に終わった,といっても過言ではない。それにもかかわらず,その後30年以上にわたって,保守政治家はもとより,多くの哲学者や政治学者が,「5月革命」に対する強い反感を隠さず,その遺産をいまだに恐れていることは疑えない。何がその原因になっているのだろうか。

いくつかの世論調査が示しているように,「5月革命」はまず何よりも労使関係など,社会面における前進をもたらし,生活習慣や社会関係mœurs,教育の分野に大きな変化をもたらしたのである。企業内の人間関係や教育の場における教師と生徒の関係,あるいは社会生活における男性と女性の関係など,調査の回答者が重視する68年5月の遺産はもっぱら人間関係,社会的な価値観にかかわるものである。そして,それが68年当時は極めて大きな混乱,無秩序をもたらしたことも確かだろう。たとえば,アニー・コエン=ソラルAnnie Cohen-Solalの『サルトル 1905-1980』が描写している,ソルボンヌの大講堂にサルトルが学生たちとの「討論会」に出席した時の様子[3]がある。同書によれば,超満員に膨れ上がった大講堂には「信じられないような混乱の中にあり」,討論にわずかでも筋道をつけられるような司会者も責任者もいない中で,高名な哲学者に対していきなり「ジャン=ポール」と名前だけで呼びかけて,「あなた」ではなく「おまえ」と語りかけるtutoiement若者たちが,あらゆる類の質問を投げかけたという。

そうした変化,一言でいえば自由の拡大は,大学やその関連施設だけでなく,職場でも,友人関係でも認められるものであった。私が働いていた東京のフランス大使館でも,大使をはじめとする幹部職員とその他の職員との間で,日常のかかわり方や言葉遣いに微妙な違いが表れて,時とともに次第に明確になっていった。

それを伝統の破壊,民族アイデンティティーの喪失,既成権威の崩壊ととらえるか,それとも人間らしさの発露,自由の拡大,平等の前進と考えるかは,個人ごとに異なる判断があってもおかしくない。しかし,歴史を振り返ると,その当時は成功したといえる「革命」もそのほとんどが,政治的にはのちに成果を覆されたり,そこまではいかずとも,部分的に逆戻りさせられたりしているのに,社会的な前進とされるものを再度俎上に載せることはより難しいし,まして個人の意識にかかわる「革命の遺産」を根本から崩壊させることは,ほぼ不可能なのではないだろうか。68年5月についても,このことは確かだと考えたい。その意味からきわめて興味深い証言として,当時は『ル・モンド』の記者をしていたロラン・グレルサメールLaurent Greilsamer(2014年以降は週刊誌『L 2』の編集顧問。なお,1953年生まれのグレルサメールは1968年には15歳になったばかりで,パリのビュフォン高校Lycée Buffonに在学していた)の次の文を引用して締めくくりにしたい。

 

「私たちは,際限なく厳しくてもの悲しく見えた灰色の世界から抜け出していた。…68年5月以前は白黒の世界だった。そのあとはテクニカラーであるNous sortions d’un monde gris qui nous semblait infiniment dur et triste… Avant Mai 68, c’était du noir et blanc.  Après, du Technicolor. « Mai commença en janvier … », par Laurent Greilsamer, Le Monde, 5 mai 2008.」

 

Odeon-Mai1968
Eric Koch / Anefo

[1] Mais quel est donc cet héritage qui vient nourrir le regard très majoritairement positif des Français sur Mai 68, alors que ces événements ont clivé le pays à l’époque? Loin de la caricature baba cool et libertaire à laquelle ses procureurs voudraient le réduire, dans la mémoire française Mai 68 reste en premier lieu un souvenir positif pour les avancées sociales et politiques rendues possibles par les utopies et les mobilisations populaires d’alors. «61 % des Français associent Mai 68 à une convergence des mobilisations entre étudiants et travailleurs, plus qu’à un mouvement de la seule jeunesse (19 %) ou circonscrit au monde du travail (14 %)», souligne Aurélien Preud’homme. Dans le bilan de 68, l’opinion retient d’abord la conquête de nouveaux droits sociaux (43 %), le «mouvement populaire» (41 %), loin devant la question des valeurs ou l’évolution des rapports entre individus (20 %).
[2] Alain Krivine : «Le mouvement de Mai 68 n’avait pas de crédibilité politique», Le Parisien, 9 mars 2018.このインタビューでクリヴィヌは次のように語っている。Aucun de nous ne l’a envisagé. Tout simplement car ce n’était pas crédible. Il y a eu un espoir, une tentative de prise de pouvoir par Mitterrand et Mendès France, mais elle a échoué. S’est ensuivie la victoire des gaullistes en juin, à l’issue des législatives anticipées, et notre organisation a été interdite.
[3] « Sartre 1905 – 1980 », par Annie Cohen-Solal, coll. Folio/essais, Gallimard, 1999

 

第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

第3話 「5月革命」に関する評価の変遷 – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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第3話 「5月革命」に関する評価の変遷 – 連載『5月革命 50周年』

「5月革命」に関する評価の変遷

 1968年の国民議会選挙に続いて,翌1969年に,ド・ゴールの辞任を受けて実施された大統領選挙でも,左翼勢力の分裂が保守派の大勝をもたらした。左翼からは社会党のドフェールGaston Defferre,共産党のデュクロJacques Duclos,統一社会党Parti socialiste unifié=PSUのロカールMichel Rocard,共産主義同盟Ligue communisteのクリヴィヌAlain Krivineが立候補したが,最大の票数を獲得したデュクロでさえ得票率は21.27%にとどまり,中道勢力に担ぎ出された,全国的にはほぼ無名の上院議長ポエールAlain Poherの23.31%に及ばなかった。こうして,決選投票はド・ゴール派のポンピドゥーと中道のポエールの間で争われることになり,両者のいずれにも票を投じることを拒んだデュクロはC’est blanc bonnet ou bonnet blancという有名な比喩を用いて,共産党支持者に決選投票のボイコットを呼びかけた。

1.-「反68年思想Pensée anti-68」

 左翼,なかんずく極左「集団」の間に,いわば近親憎悪ともいうべき意見の対立が生まれ,日本の新左翼における「内ゲバ」に似たような関係が避けられなかったことも,68年に対する評価に大きな影響を与えた。とくに1970年代には,「革命」に何らかの形で直接にかかわった人々の間に,その結果に対する幻滅が生まれ,そのうちのかなりのものが「反68年」思想とも呼ばれる道をたどることになった。とくに有名なのは,1974年に仏訳が出版されたソ連の作家ソルジェニーツィンAlexandre Soljenitsyneの『収容所群島L’archipel du Goulag』に影響を受けて,ソ連の強権的な全体主義を強く批判して,「マルクスは死んだMarx est mort」(哲学者ブノワJean-Marie Benoistによる)と断言した「新哲学者nouveaux philosophes」たちである。代表的な思想家としては,グリュックスマンAndré Glucksmannとベルナール=アンリ・レヴィBernard-Henri Lévyを挙げることができる。グリュックスマンは元毛沢東主義者として知られるが,レヴィとともにテレビの書評番組などに頻繁に登場して,マスコミの寵児になった。その他,同じくかつては毛沢東派に属した哲学者フィンケルクロートAlain Finkierklautや社会学者で作家のル・ゴフJean-Pierre Le Goff,さらにはかつてキューバ革命の英雄フィデル・カストロやチェ・ゲバラと行動を共にしたレジス・ドブレRégis Debrayなどが,マスコミを舞台に論壇に大きな影響を及ぼしていた。

 「5月革命」に対する批判は,相互に相いれないものまで含めて,多岐にわたっている。『リベラシオン』紙の編集主幹ジョフランLaurent Joffrinが2018年5月1日付同紙に「68年5月 真の解放に対するいわれない非難Mai 68 : les faux procès d’une vraie libération」と題する長文の記事で,「5月革命」批判の主なものを取り上げて,反論している。それを列挙してみよう。

 -「68年5月は,リバタリアン的で消費主義的な快楽主義を掲げて,…フランス社会…を支えていた共通の価値観を壊滅させた,個人主義的,利己的な反乱であった。Mai 68 fut une révolte individualiste et narcissique qui a dissous au nom d’un hédonisme libertaire et consumériste les valeurs communes …de la société française.」

 -「68年5月は,大学を混乱と破産状態に追い込んだ学生たちによる,危険でアナーキーな反乱であった。Mai 68 fut…une révolte étudiante délétère et anarchique qui a plongé l’université dans le désordre et la déconfiture.」

 -「68年5月は暴力的なマルクス主義運動であり,偏狭な少数派を利するために民主主義の秩序を転覆しようとするものであった。Mai 68 fut un mouvement marxiste et violent qui a tenté de renverser l’ordre démocratique au profit de minorités sectaires ….」

 -「68年5月は,フランスの共和主義に基づく構造を破壊しようとする,無目的で虚無的な反乱であった。Mai 68 fut une révolte nihiliste et sans but, qui a cherché à détruire les structures républicaines de la France.」

 -「68年5月は親の権威を傷つけ,家族を分裂させた。Mai 68 a abaissé l’autorité parentale et désagrégé la famille….」

 -「68年5月は学校を崩壊させ,学問と価値の伝達を破滅に導いた。Mai 68 a détruit l’école et ruiné la transmission du savoir et des valeurs.」

 -「68年5月は国家(ナシオン)に対する攻撃であり,冷徹なグローバル化の前兆であった。Mai 68 fut un attentat contre la nation et un prélude à la mondialisation sans âme….」

 -「68年5月は資本主義の狡猾さを示すもので,社会のネオリベラルなアメリカ化を決定的に促すものであった。Mai 68 fut…une ruse du capital et un adjuvant décisif à l’américanisation libérale de la société.」

-「68年5月は保守の勝利であった。保守は5月事件の結果,以前にも増して力を得た。Mai 68 fut une victoire de la droite qui est sortie renforcée des événements.」

 -「68年5月の指導者は毛沢東服を捨ててロータリークラブの会員になった。これは指導者に裏切られた革命であった。Mai 68 fut une révolution trahie par ses leaders qui sont passés «du col Mao au Rotary Club».」

 これらの非難そのものについては,とくに反論の内容を紹介するまでもないだろう。ただ,時事フランス語という観点から覚えておきたいことがいくつかある。第1には,anarchisteとlibertaireという語についてである。これら二つの語は,少なくとも1980-90年代までのフランスに限って言えば,ほぼ同義語として理解してよいのだが,1980年代以降,とくに経済活動のグローバル化が進んで,ネオリベラリズムが主流になるとともに,libertaireは国家や共同体による一切の制約を拒否するとともに,あるいはそれ以上に,企業と個人の自由を優先する,アメリカで「リバタリアン」と呼ばれる人々を指すようになった。第2は,「5月革命」に参加したものの中で,のちに「転向者」になった人々がしばしば口にする言葉にboboというものがある。これはbourgeoisとbohémienを結び付けて縮めたもので,「革命」のうちでも快楽的で利己的な側面のみを取り上げて,「革命」そのものを「お坊ちゃまfils à papa」たちの無責任で一時的な活動とみなそうとするものである。こうした非難をなすものはまた,「5月革命」が「セックス革命révolution sexuelle」だったと断言することがある。確かに,フランスの学生運動や労働運動の中で女性の存在が表面に現れることはそれまでほとんどなかった。とはいえ,68年当時,学生デモの中に見られた女性たちが,公の場で積極的に発言することは極めてまれであった。第3は,「学生の」を意味する形容詞として,68年当時はestudiantinという語が多く用いられていたのに対して,その後はétudiantのほうがよりしばしば使用されるようになったことを記しておきたい。また,「社会の」を意味する形容詞にも変化が見られた。socialとsociétalという二つの語があるが,後者はPRによれば1970年代になって初めて日常言語に登場したようである。これは単に「社会の」というよりは,「社会制度に関する,社会的な価値観に関して」というニュアンスを持つもので,AntidoteはLa France a connu de profondes mutations sociétales au cours du dernier demi-siècle (Le Monde)という用例を挙げている。

 『ル・モンド』は2018年3月15日号に,『反68年思想La pensée anti-68』の著者でパリ第4大学教授のセルジュ・オディエSerge Audierのインタビューを掲載している。それはジョフランの記事に取り上げられている「反68年思想」に多くのことを付け加えているわけではないが,1980年代の半ばに登場してきたリュック・フェリLuc Ferryやアラン・ルノーAlain Renaudなどが,「68年思想」に対して,それが「現代の反ヒューマニズムantihumanisme contemporain」であると批判した事実を想起していることは,注目されるべきである。これについてオディエは,「(フェリらの)批判は未整理であり,一貫性に欠けるいろいろな要素が雑然とぶつかり合っているdes éléments peu cohérents se sont télescopés dans ce réquisitoire confus」と断じている。

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Robert Schediwy

-世代交代と評価の客観化

 現在でもなお,「68年世代は存在するのかExiste-t-il une « génération 68 » ?」(2018年3月16日付『ル・モンド』に掲載された記事のタイトル)という問いが出される。ここでいう「68年世代(soixante-huitard(e)ともいうが,これは「年齢」だけの問題ではなく,「5月革命」に直接参加したかどうかという意味も含んでいる)」が,パリの学生街であるカルチエ・ラタンを主な生活の舞台として,68年5月のある日,ソルボンヌの中庭を祭りと百家争鳴の討論の場にした学生たちだけを指しているのなら,それは正確ではない。なぜなら,「5月革命」はパリで始まったにしても,全国に波及して,労働者や農民をも巻き込んで,最も多い時には1000万人以上が参加したゼネストに発展したものだからである。

社会層も年代も異なる人々を数週間にわたって,国中で熱狂の渦に巻き込んだ運動である「5月革命」を,特定の人物像に閉じ込めることは不可能である。それゆえ,それに参加したいろいろな思想を持ち,様々な社会層に属する人たちが,それぞれの生きた体験に基づいて描く「5月革命」が,一つの評価や単一の分析に行き着かないのも当然である。とはいえ,1970年代から1990年代までは,直接の参加者が,もっぱら個人の経験に基づいて,しかもしばしば,「革命後」の深い幻滅に導かれて,全面的な否定とまではいわないまでも,きわめて批判的な68年像を伝えてきたことは否定できない。また,「68年世代」のすぐ後に続いた世代が,年長者に対するある意味で自然な反発を前面に出して,「5月革命」の否定的な側面にスポットライトを当てたことも確かだろう。たとえば,1955年生まれの元大統領ニコラ・サルコジは,2007年の大統領選挙に先立つ運動期間中,「68年5月は知的・道徳的な相対主義をわれわれに押し付けたmai 68 nous avait imposé le relativisme intellectuel et moral」と断言し,選挙で問われることになるのは,「68年5月の遺産を永らえるべきなのか,それともそれを最終的に清算することなのかであるil s’agit de savoir si l’héritage de Mai 68 doit être perpétué ou s’il doit être liquidé une bonne fois pour toutes」と続けた。

「専門家であるか,一つのテーマだけをマニアックに追及する人でない限り,68年5月の40周年を機会に,それを扱った書籍のすべてを読むことは不可能だろうA moins d’être un spécialiste ou un monomaniaque, il sera difficile de lire l’ensemble des publications consacrées à Mai 68, à l’occasion de son quarantième anniversaire」(2008年5月の『ル・モンド・ディプロマティック』)。実際,「68年5月を記念する本が最近だけでも100冊近く出版されているPrès d’une centaine de livres viennent d’être publiés en France pour « fêter » Mai 68」(同上)。とはいえ,当時フランス全国を麻痺させたストに参加した何百万の人々の記憶が,やっと「5月革命」の意義をめぐる論争の中にその声を反映させられるようになったのは,比較的最近のことである。いうまでもなく,日本でもフランスの「5月革命」に関する多くの書籍や考察が出版されている。なかでも西川長夫による『フランスの解体? もう一つの国民国家論』(人文書院,1999)と『パリ5月革命 私論 転換点としての68年』(平凡新書,2011)を挙げておこう。

2010年代に入ってからようやく,68年5月が正当な研究の対象になった。言い換えると,客観的な歴史研究が進められるにつれて,「68年」は単数ではなく複数形で語られるべきだと考えられるようになった。確かに,「生きた記憶mémoire viveから文化的記憶mémoire culturelle」に変わるためには少なくとも40年ぐらいが必要だという意見がある。たとえば『ル・モンド』の「論争」欄担当記者ニコラ・ヴェイユNicolas Weillが,ドイツのエジプト学者ヤン・アスマンの考えを伝えながら,次のように書いている。Il est vrai que la période de quarante ans n’est pas une étape comme les autres du point de vue des rythmes de la mémoire collective. Pour le philosophe et égyptologue allemand Jan Asmann, qui a passé les phénomènes mémoriels aux cribles de plusieurs contextes, quatre décennies correspondent aux débuts de la transformation de la “mémoire vive” (celle des acteurs et des témoins) en “mémoire culturelle” (publique et historique). « Les années 1968 sans folklore ni pavés », par Nicolas Weill, Le Monde, 25 février 2008。

『ル・モンド』はすでに2008年に「反68年5月思想は枯渇しているLa pensée anti-Mai 68 s’épuise」と題する記事を掲載し,「(1980-90年代に見られた)1968年と絶縁しようする奇妙な情熱は,事実の歪曲を前提としているcette étrange passion à se dépendre de Mai 68 passe par la déformation」と書いている。それに続けて,筆者である同紙の記者ヴェイユは,「この戯画化された68年像は,その後に政権を握った保守派の言説を育てたcette caricature fait le terreau du discours futur de la droite au pouvoir」が,「近年の歴史資料研究がそれに歯止めをかけたcette tendance de fond est contrecarrée depuis quelques années par les progrès de l’historiographie」と指摘したうえで,要約すると次のように論理を展開している。「共産主義の失敗がベルリンの壁崩壊によって明白となった後,左翼の思想家や哲学者たちはネオリベラリズム批判を再構築する作業に取り組み始めたが,その際に68年の経験が非暴力主義に基づいた反体制闘争のモデルになりうるものと捉えることになった。アレクシス・ド・トックヴィルAlexis de Tocquevilleやレモン・アロンRaymond Aronに代表されるフランスのリベラリズム思想が,2000年代に入ってフランスの衰退を強調する悲観論déclinismeにはまり込んでいた一方で,フランスのアラン・バディユーAlain Badiou,イタリアのアントニオ・ネグリAntonio Negri,アメリカのマイケル・ハードMichael Hardtといった政治哲学者が,自由や社会正義,政治的アンガージュマンなどをテーマに精力的な著作活動を展開している[2]」。

[2] この部分は原文を大幅に要約している。原文は次の通り。Or cette tendance de fond est contrecarrée depuis quelques années par les progrès de l’historiographie, qui ont donné de Mai 68 une tout autre image que celle d’un événement dont le message serait à rechercher dans les mœurs ou dans un effet de connivence générationnelle. Ce renouvellement s’accompagne d’un dynamisme de la pensée radicale, lequel se traduit à son tour par une efflorescence de maisons d’édition et de revues, parfois animées par de très jeunes gens. Depuis la chute du Mur de Berlin, l’extrême gauche se trouve en effet confrontée à un défi qui stimule sa productivité théorique : celui de reconstruire une critique du néolibéralisme après l’échec du communisme, tout en faisant l’économie de la violence. Sur ce point-là, la lutte à fleurets relativement mouchetés de Mai 68 peut servir de modèle alternatif. De même que les mouvements de libération collective des minorités, qui en sont plus ou moins issus, battent en brèche l’idée que le legs de 1968 puisse se réduire à l’émergence d’un néobourgeois individualiste pressé de ” jouir sans entraves “.
Nul doute que ces nœuds-là stimulent les théoriciens de l’extrême gauche et suscitent de ce côté-là un bouillonnement. Il contraste avec l’ambiance crépusculaire qui semble s’être emparée de la réflexion libérale qui se réclame d’Aron et de Tocqueville. Alors qu’on voit des philosophes comme le Français Alain Badiou, les Italiens Antonio Negri ou Giorgio Agamben, l’Américain Michael Hardt ou le Slovène Slavoj Zizek constituer, parfois de façon brouillonne, une nouvelle constellation de philosophie politique critique, la tradition libérale en France s’est comme figée sur sa posture mélancolique ou décliniste. Quand elle n’est pas devenue franchement réactionnaire ! (« La pensée anti-Mai 68 s’épuise », par Nicolas Weill, Le Monde, 26 avril 2008

続く(次回は9月28日更新予定)
第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

最終話 – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

1.-学生運動から労働者との合流まで

いうまでもないが,「5月革命」が5月になって突然はじまったわけではない。先に記した3月22日のナンテールにおける事件が,その後の学生による「異議申し立てcontestation」運動の発端になった。その後,4月にはアメリカでキング牧師の暗殺が全米に抗議活動を呼び起こしたし,チェコの「プラハの春」が本格化する一方で,ドイツでは学生運動の指導者の1人であったドゥチュケRudi Dutschkeが狙撃されたことに対する抗議デモが広がった。フランスでもナンテールの混乱が続くかたわら,トゥールーズやストラスブールなどでも様々な衝突が発生し,4月27日には,「赤毛のダニーDany le rouge」と呼ばれて,「5月革命」の指導者の中でももっとも広く名を知られるようになったコーン=ベンディットDaniel Cohn-Benditが警察に拘束されるなど,学生と当局,さらには極右団体との緊張が高まっていた。そうした中,1954年のアルジェリア独立戦争勃発以来禁止されてきたメーデーのパリ市内デモ行進が,共産党Parti communiste français=PCFと同党の強い影響下にある労働組合労働総同盟Confédération générale du travail=CGTの呼びかけで,14年ぶりに復活した。そしてその2日後,5月3日にパリ大学本部が置かれているソルボンヌに警官隊が導入されて,排除された学生と警察との衝突が周辺街路に及んで,大混乱を呼んだ。この時には600人近い学生が検挙され,それに抗議するため高等教育教員組合Snesupなどの呼びかけで無期限ストが決定された。これが真の意味で「5月革命」の開始を告げたといってよいだろう。その後,カルチエ・ラタンのほぼ中央に位置する国立劇場オデオン座théâtre national de l’Odéonの占拠とか,街頭における高校生を含む学生デモ隊と治安当局の激しい衝突などがラジオとテレビで連日実況中継され,世論に大きな衝撃を与えた。

政府当局の強硬姿勢が目立つ中,5月10日の夜,街路の各所に設けられたバリケードを挟んで,道路の舗装材として用いられていた敷石をはがして武器とする学生と,催涙ガスや警棒を使用する警官隊の間で大規模な衝突が発生して,「バリケードの夜nuit des barricades」として歴史に記録されることになった。その際には,重傷を負って病院に収容されたものが350人を超えた。この夜のデモに参加したものの数は警察発表でさえ20万人といわれている。

当時はなお,フランスの左翼・革新勢力の中核をなしていた共産党とCGTは,学生運動はもちろん,それに対して次第にはっきりと連帯を見せ始めていた労働者たちの動きに ,一定の枠をはめようと努めた節がある。しかし,それは決して成功していたとは言えない。それどころか5月13日(ド・ゴールが植民地アルジェリアの存続を主張する軍部に担がれて政権に復帰するきっかけとなった,1958年5月の駐アルジェリア軍の蜂起から10年となる日)には,パリだけで主催者発表100万人規模のデモが行われ,多くの産業施設がストに突入した結果,全土が麻痺状態に近くなった。この日から5月27日へかけて,労働者の自主的なストが広がり,参加者は800万とも1000万ともいわれる,フランス史上で空前絶後の数に達した。学生運動と労働者の闘争が一体化していくことは,当時は単に「合流jonction」といったが,2018年の春,フランス国鉄やエール・フランスの長期ストに加えて,各地の大学で学生による校舎占拠が広がった時,マクロン大統領をはじめとする政府当局は,反政府運動の収斂convergence」は見られないと断言した。

全国に広がり,激化するゼネストを前にして,政府は一貫して強硬姿勢を貫いているように見えた。たとえば,ルーマニア訪問を1日短縮して5月19日に急遽帰国したド・ゴール将軍が,同日の閣議で「改革はよいが,混乱はだめだla réforme, oui, la chienlit, non」と言明したと伝えられたが,これは政府が妥協を拒否していることの表れとみられた[1]

[1] ちなみに,このchienlitという語(語源はchier en litと言われている)は16世紀の有名な作家フランソワ・ラブレーFrançois Rabelaisによる『ガルガンチュアGargantua』ですでに用いられている“由緒ある”単語だが,その本来の意味もあいまいで,ヴィクトル・ユーゴーVictor Hugoなどの用例が知られているとはいえ,ド・ゴールによる使用が伝えられるまではきわめて珍しい語とされていた。その後,2015年10月にエール・フランス社の幹部が労使交渉の行き詰まりにいら立った組合員に暴行を受けた時,野党共和党の党首ニコラ・サルコジが再びchienlitという語を用いて政府の無力を揶揄した。ただし,この時には一部のマスコミやインターネット上で,元大統領の言語感覚を皮肉る記事や投稿が相次いだ。

とはいえ,このド・ゴールの発言を記者団に公表した当時の首相ポンピドゥーが,どちらかというと柔軟な態度をとっていたのに対して,ド・ゴール自身は強硬策を断固として主張していたと推測させる材料もある。なかんずく,ポンピドゥーは企業経営者,労働組合の代表をパリ7区のグルネル街rue de Grenelleにある労働省に集め,政府を含めた3者交渉を主宰していた。また,5月28日にド・ゴールが首相にも一言も漏らさず,隠密裏にドイツへ赴いたことと,そこでかつてアルジェの反政府蜂起を指揮したマシュ将軍と会談したことは,ポンピドゥーにとって,ド・ゴールとの間に長い間存在してきた信頼のきずなを傷つけるものに見えた。こうして,5月30日,ド・ゴールと会談した際,ポンピドゥーは辞表を胸に大統領府が置かれているエリゼー宮を訪れたといわれている。実際,ポンピドゥー自身は共産党とCGTを交渉相手とすることで,混乱を収拾しようとしていたようである。そして,5月27日に発表された「グルネル合意accords de Grenelle」

に対する賛否について,反政府勢力の間で明白な意見対立が明らかになった。なかでも学生運動の内部では,「3月22日運動Mouvement du 22 mars」を代表するコーン=ベンディットとフランス全国学生連盟Union nationale des étudiants de France=UNEFの副会長ジャック・ソーヴァジョJacques Sauvageotの間に不和の兆しが見え始めた。ただし,6月の初めまでは各地でストに参加している労働者がその受け入れを拒否していた。

それでも,全職種共通最低保証賃金salaire minimum interprofessionnel garanti=SMIG(その後「全職種共通最低成長賃金salaire minimum interprofessionnel de croissance=SMICと改称された)の35%に及ぶ大幅引き上げ,法定労働時間の短縮,労働者の権利拡大などを定めたグルネル協定が,「5月革命」に大きな転機をもたらしたことは疑えない。また,1968年11月に成立した高等教育基本法loi d’orientation de l’enseignement supérieur(その起草を主導した当時の文部大臣エドガール・フォールEdgar Faureの名をとって「フォール法loi Faure」と呼ばれる)も,高等教育機関の自治を強化するかたわら,その大規模な再編成を定めていた。たとえばそれまで全国に23しかなかった国立大学は68の大学に再編されたし,単一の組織であったパリ大学は,一挙に13に分割された。また,各大学内の学部facultéは「教育研究単位unité d’enseignement et de recherche=UER」と改名された。


2.-「革命」の終焉

共産党とCGTは明らかにゼネストを収束させて,自らの主導権の下でド・ゴール大統領とポンピドゥー首相が導く保守政権を転覆させることを目指していた。5月29日には,CGTが政府の転覆を呼び掛けて大規模なデモを主催したが,パリにおける参加者は80万人に達したともいわれた。一方,時を同じくして開催された閣議の後,ド・ゴールが一時行方不明になったと報道された。実はその時,大統領はドイツのバーデン=バーデンへ飛び,1958年にアルジェリアの反乱軍を指揮したマシュ将軍général Jacques Massuと会談した後,夕刻にフランス東部の小村コロンベ=レ=ドゥー=エグリーズColombey-les-deux-Eglisesにある自宅へ戻っていたのである。この会談で何が話されたか。諸説あるが,「ゴーリスムの記録」を名乗るウェブ・サイト(http://archives.gaullisme.fr/)によれば,意気消沈していた大統領をマシュ将軍が元気づけたという。ただし,その場ではいかなる形でも,国内の混乱に対処するために軍の介入を話題とすることはなかった,と言われている。いずれにしろ,翌5月30日,パリへ戻ったド・ゴールがラジオで国民議会の解散と,繰り上げ国民議会選挙実施を発表すると,それに応えて,同日中に大統領と政府を支持するデモがパリのシャン=ゼリゼを埋め尽くし,100万もの参加者を数えた。

確かに,6月5,6日までは各地で工場や職場の占拠が続いていた。しかし,5月30日が「68年5月」における学生と労働者の反体制運動に初めて歯止めをかけ,ド・ゴールを支持する体制側の反転攻勢の開始を告げたことは明らかである。政府側は6月6日にパリ近郊フランFlinにあるルノーの工場へ警官隊を導入して,実力でストを中止に追い込んだばかりでなく,同10日にはソショーSochauxのプジョー工場で機動隊Compagnie république de sécurité=CRSとスト中の労働者の衝突が18時間に及んで,死者1人を出したほか,負傷者も多数に上った。

同日,繰り上げ国民議会選挙が公示され,その2日後には選挙期間中,街頭におけるあらゆるデモ行動が禁止されただけでなく,一部の極左団体が解散を命じられた。それにもかかわらず,学生や労働者の運動が直ちに沈静化したわけではない。しかし,6月5日にパリの地下鉄Régie autonome des transports parisiens=RATPでストが一部中止され,部分的にではあるが運行が始まったのに続いて,12日には高等学校で授業が再開されたし,19日にはルノーの工場で,さらに24日はプジョーの工場で操業が再開された。

そして,6月23,30日に実施された国民議会選挙では,「5月危機」がもたらした混乱の責任を問われただけでなく,内部における意見対立に悩まされた左翼諸党・諸勢力を抑えて,保守派が記録的な大勝を収めた。ド・ゴールを支持する共和国防衛連合Union pour la défense de la République=UDRと独立共和党Républicains indépendantsが,全議席485のうち358を獲得したのである。確かに,得票率でみれば両党の合計が43.6%にとどまったのに対して,共産党が20%,民主社会左翼連合Fédération de la gauche socialiste et démocratique=FGSDが16.5%と,それほど大きな差とは言えないが,第5共和政独特の選挙制度のため,分裂を乗り越えられない左翼は国民議会では壊滅状態となった。

こうして,「退屈していた」フランスを2か月にわたって揺るがせ,麻痺させた学生と労働者の運動は,政府の実力行使に次々と鎮圧され,多くの活動家が逮捕されたり,職場を追放されたりした。一見,体制側の完勝とさえいえる形で終わりを迎えた「5月革命」だが,しかし,その後のフランスに,社会的にも思想的にも消すことのできない深い影響を残し,現在でも残し続けている。

続く(次回は9月14日*更新予定)

*【訂正とお詫び】本記事掲載時に更新日程記載の誤りがありました為、訂正いたしました。

第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

第3話 「5月革命」に関する評価の変遷 – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

『5月革命 50周年』

彌永康夫

1968年5月にフランス全土をほぼ1か月にわたって麻痺させた「事件événements」は,日本では今でも「5月革命révolution de mai」と呼ばれている。今年はそれからすでに半世紀がたったことになり,年初からフランスのマスコミでは,数多くの特集が組まれている。ただし,少なくともここ20年以上,フランスでこの関連で「革命」という語が用いられることは例外的である。「事件(出来事)」さえも省いて,単に「68年5月Mai 68」と呼ぶのが最も一般的である。

ところで,私がフランス語の授業を担当し始めて間もない2000年代の初めころ,仏文和訳の授業で「5月革命」をテーマに取り上げたことがあった。ただし私には,聴講生の大半にとってこれは歴史上の事件ではあっても,その内容も意味も漠然としか知らないか,まったく未知のものであり,身近に感じるなどありえない,ということには考えも及ばなかった。そのことに気づいて愕然とした記憶がある。

それゆえ,まずは「5月革命」がどのようなものであったかを振り返ってみることにしよう。もっとも,そのためには,当時のフランスと世界の全体的な状況を大まかにではあれ,想起しておくことが必要だろう。

1968年の国際・国内情勢

1.-「フランスは退屈している」

1968年3月15日付の『ル・モンド』紙上に,同紙の政治部長で,フランスの内政に関する鋭い分析で知られたピエール・ヴィアンソン=ポンテPierre Viansson-Pontéが署名した,「フランスが退屈するとき…Quand la France s’ennuie …」と題する記事が掲載された。その書き出し部分と最後の数行を引用してみよう。

「現在,わが国の政治情勢を特徴づけているもの,それは退屈である。フランス人は退屈している。世界を揺るがせている激動に,フランス人は直接にも,間接にも加わっていないのである。(…)今やほぼ本土だけになった小さなフランスは,本当に不幸ではなく,また本当に繁栄もしていない。すべての国と平和な関係を保っているが,世界規模の出来事に大きな影響力を及ぼせる立場にもない。こうしたフランスにおいては,福祉と成長と同じくらい,熱意と想像力が求められているのである。それは確かに容易なことではない…しかしこの必要条件が満たされないと,無感覚症状が全身衰弱を引き起こしかねない。そして,過去にも見られたことだが,極端に言えば,一つの国が退屈ゆえに死滅することもありうる。Ce qui caractérise actuellement notre vie publique, c’est l’ennui. Les Français s’ennuient.  Ils ne participent ni de près ni de loin aux grandes convulsions qui secouent le monde…. Dans une petite France presque réduite à l’hexagone, qui n’est pas vraiment malheureuse ni vraiment prospère, en paix avec tout le monde, sans grande prise sur les événements mondiaux, l’ardeur et l’imagination sont aussi nécessaires que le bien-être et l’expansion… Ce n’est certes pas facile. S’il (cet impératif) n’est pas satisfait, l’anesthésie risque de provoquer la consomption. Et à la limite, cela s’est vu, un pays peut aussi périr d’ennui.」

この記事が出た1週間後の3月22日に,パリ大学ナンテール分校で学生による大学管理棟の占拠が始まり,これが「5月革命」の出発点となったことを考えると,ヴィアンソン=ポンテの分析力に疑問符が付くといっているだけでは済まないものを感じる。しかし,当時から半世紀が経過した2018年4月,『ル・モンド』がホームページに掲載した「3分で説明する68年5月の事件」と題したビデオでも,「フランスは退屈している」という言葉が最初に出てくる。そこでまずは,当時のフランスがどのような状況にあったか,簡単に思い出してみよう。

第2次世界大戦中,ド・ゴールCharles de Gaulle将軍はナチス・ドイツに占領されたフランスでレジスタンス運動の強力な指導者となり,大戦後の数か月間,解放されたフランスで臨時政府を率いた。しかし彼は,新しい憲法草案について主要政党との間に見解の相違があることを理由に,1946年1月に辞職を表明した。実を言えば,レジスタンス運動の英雄として世論の強い支持を期待できると考えて,すぐにも政権の座に呼び戻されると信じてとった行動だったが,その期待は裏切られて10年以上にわたる雌伏の時期(「砂漠横断traversée du désert」と呼ばれる)に耐えることになった。政権に復帰できたのはやっと1958年5月になってからだった。アルジェリア独立戦争で劣勢に立たされていた軍指導部が,アルジェで反政府蜂起(いろいろな呼び方があるが,マスコミではputsch d’Algerというのが一般的である)の強い希望に応えたものだった。しかしひとたび政権を握ったド・ゴールは,アルジェリアの独立を認めて戦争を終わらせる政策をとり,当初は彼を支持した軍部や極右勢力を敵に回すようになり,1962年には正式に独立アルジェリアが誕生した。それに対して,「フランスのアルジェリアAlgérie française」に固執する「秘密武装組織Organisation armée secrète=OAS」がテロ活動を展開したため,暗殺される危機感を抱いたド・ゴールは,全国民が参加する直接普通選挙suffrage universel directによる大統領選出を定めた憲法改定を決め,1962年秋の国民投票によってそれを承認させた。

1946年から1958年までの12年間続いた第4共和政下で,フランスでは「内閣の交代」が26回行われた。もっとも,同じ期間に首相の座に就いたのは18人であり,たとえ政府を率いなかったとしても内閣の主要ポストを複数の内閣の下で占めた政治家も多かった。それに対して,政権に復帰したド・ゴールが成立させた第5共和政は,1958年から1968年5月までの10年間,大統領はド・ゴール1人,首相はミシェル・ドブレMichel Debréとジョルジュ・ポンピドゥーGeorges Pompidouの2人しか数えない,超安定政権であった。とくに,当初は強権政治,さらに言えば独裁政治に走る危険を指摘されていたド・ゴールが,アルジェリア独立戦争という特異な状況下で反対勢力を押さえつけていたことは否めないとしても,1962年の憲法改定以降は,内政が安定していたのは確かである。

それと並行して,第2次世界大戦の終了後,「栄光の30年les trente Glorieuses」と呼ばれる高度経済成長期を経験したフランスは,戦争の荒廃から立ち直っただけでなく,急速な農業離れによる労働力の都市流入を利した製造業の目覚ましい発展の恩恵を受けるかたわら,レジスタンス時代に力をつけた左翼勢力の影響力が強かった戦後初期に基礎が築かれた社会福祉の充実とも相まって,1960年代の半ばごろには,政治の安定と経済の成長の中で「退屈」し始めていたのかもしれない。

もっとも,これはあくまで表面的な分析にとどまる。実際,アルジェリア戦争時代の反戦運動や,逆に軍部の反乱やその受け皿となった極右勢力などが,いずれもなお燻ぶっていた。そうした中で,思想・文化面を見ると,戦後すぐに一世を風靡したサルトルJean-Paul SartreとボーヴォワールSimone de Beauvoirに代表される実存主義existentialismeはすでに衰退し,そのあとにクロード・レヴィ=ストロースClaude Lévi-Straussを旗頭とする構造主義structuralismeや,そのあとをうかがうポスト構造主義がpoststructuralisme主流をなす一方,共産党に代表される伝統左翼を批判する多様な思想グループが乱立していた。

1940年代後半の「ベビーブームbaby-boom」世代が中等教育から大学へと進む時期が,ちょうど1960年代の終わりと重なった。「教育の民主化démocratisation de l’enseignement」あるいは「大衆化massification」が急速に進んでいるというのに,教育の内容はもちろん,中・高校や大学の施設が全く時代に追い付いていなかったうえに,高等教育を卒業しても,魅力ある就職先を見つけることも難しい,「閉塞社会société bloquée」が支配していた。かくして,高校生や大学生は「退屈する」どころか,鬱積する不満を抱えていた。こうして,伝統的な制度や権威が外見上は健在であるのに,それに対する不満がとくに若い世代の間で内向し,蓄積されていた。政治はそうした不満を反映するどころか,その存在にさえ気づいていないかのようにみえたし,労働組合などの既存組織も世代間の断絶を乗り越えられないでいた。

2.世界では

日本における「神田カルチエ・ラタン」を思い出すまでもなく,1968年という年はアメリカをはじめとして,アジア,西ヨーロッパ,東ヨーロッパ,中東など,世界のほとんどあらゆる地域で様々な形で戦争や内紛,反体制運動が展開された。

たとえばアメリカでは,ベトナム戦争反対運動が各地の大学に広がる一方で,フォークソングが若者の間に広く歌われ,ヒッピーたちが既存社会秩序の外側で独自の「コミュニティー」を形作ろうとしていた。そしてまた,公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キングMartin-Luther King牧師と,ケネディ元大統領の弟で民主党の有力な次期大統領候補であったロバート・ケネディRobert Kennedy上院議員が,それぞれ4月4日にメンフィス,そして6月6日ロスアンゼルスで暗殺されて,社会全体に大きな衝撃を与えた。

アジアでは,1967年に始まった中国の「文化大革命grande révolution culturelle」が最高潮に達していた。実際には,毛沢東派と「実権派」の間の権力争いととらえるべきなのだろうが,当時は,多くの若者たちの目に既成の秩序と権力を打倒する反体制の動きととらえられ,「造反有理(定着した仏訳はないようだ。毛沢東主義系のカナダ革命的共産党のパンフレットではon a raison de se révolterと訳している)」という考え方が共感を持って迎えられた。他方,1964年にアメリカが本格的な軍事介入を始めたベトナムでは,1968年1月に民族解放戦線Front national de libération=FNL(Viet Cong)によるテト攻勢Offensive du Têtが戦局に大きな転機をもたらした。関係国間の水面下の交渉が続いて,同年5月13日からパリで和平会談が開始されることになっていた。

ヨーロッパでは,1968年2月にチェコスロバキアでソ連一辺倒の共産党と政府に反対する「プラハの春printemps de Prague」の動きが始まる一方,イタリアのローマでは学生と警官隊の間で激しい衝突が発生し,5月ごろまで全国で学生による大学建物の占拠などが続いた。さらに,当時は共産党政権のもとにあった東ドイツで特異な地位を占めていたベルリンや,フランコ体制下にあったスペインでも,学生による反政府運動が政権側の弾圧に直面した。

中東に目を向けると,前年1967年5月に「第3次中東戦争troisième guerre du Moyen-Orient」に勝利したイスラエルが,パレスチナ全域をはじめ,シナイ半島やゴラン高原などを含めて,占領地territoires occupésを一挙に4倍に拡大して,パレスチナ解放機構Organisation de libération palestinienne=OLPのテロ活動を活発化させることになった。

中南米では,やはり前年の1967年10月にキューバ革命の英雄チェ・ゲバラがボリビア政府軍に捕らえられて,裁判も受けずに処刑されていたが,そのことがかえってゲバラの名を高め,彼の影響力を強めることになっていた。さらに,軍事政権に支配されていたブラジルとメキシコでも,春から秋にかけて学生が主導する激しい反体制運動がおこり,軍と警察による厳しい弾圧のために,メキシコでは多数の死者を出す暴動にまで発展した。

こうして,1968年とその前後の世界各地における主な出来事を足早に振り返ってみるだけでも,ヴィアンソン=ポンテの分析とは反対に,当時の世界が第2次大戦後の東西冷戦と,「欧米帝国主義」支配から大きく動き出そうとしていたことがわかる。アメリカは依然として世界最大の軍事大国ではあったが,経済面では日本や西ヨーロッパの高度成長によってその立場を脅かされ始めていたし,ベトナムをはじめとする国外における軍事介入に伴う財政面の重荷のため,それまでドルが保持していた唯一の国際通貨としての地位を失う危険を感じてもいた(1971年8月には,いわゆる「ニクソン・ショックchoc Nixon」をきっかけにドルの金兌換性convertibilité orが停止され,多数の国を巻き込む大規模な通貨レート(平価)見直しréajustement de paritésへとつながった)。

一方,ソ連を盟主とする「東側陣営」は,1940年代の末にすでにユーゴスラビアによって一枚岩体制を崩されていたが,1950年代の末に兆しを見せ始めた中ソ対立querelle sino-soviétiqueによって決定的な打撃を受けていた。そうした中で,米ソをはじめとする国連安保理事会の常任理事国が核兵器を独占できる体制を整える核不拡散条約Traité de non-prolifération (des armes) nucléaire(s)=TNPが1968年に調印され,冷戦に変わる緊張緩和détenteが端緒についたが,ベトナム戦争が終わるには1975年まで待たなければならなかった。

第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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「ニュースピーク」-政治の言語と経営の言語(第4回/全4回)【時事フランス語への視点】

7. 政治の「新世界」とニュースピーク

2017年の大統領選挙でエマニュエル・マクロンが大方の予想を覆して当選したとき,彼が唱えた種々の主張の中で有権者に対するインパクトが最も大きかったものの一つが,「既存政治を一新」するため,従来の有力政治家を退陣させて,「新しい世界nouveau monde」の到来を可能にする,というものがあった。そうしたスローガンを象徴する用語として注目を集めたのは,「刷新renouvellement」であり「(既存の政党や政治家の)退陣dégagisme」であった。そして「責任をもってこうした破壊的創造をもたらす変貌を実現するためには,共同建設の精神に立ってエネルギーの解放を目指さなければならないil faut assumer cette transformation disruptive pour libérer les énergies dans un esprit de coconstruction」—政府が進めようとしていたフランス国鉄の改革や,大学への進学条件の見直しに反対する大規模なデモを前にして,マクロンがこのような言辞を弄したとしても,とくに驚く人はいなかったであろう。2018年3月23日付の『ル・モンド』は,「改革を推進するためにマクロンが選んだ言葉Macron et les mots choisis de la réforme」と題する記事をこのように書き出している。

ここにはdisruptifという形容詞の特異な用法を別にすれば,英語の単語は登場していない。しかし,「世論やマスコミの批判を浴びても責任をもって推進する」というニュアンスを持つ動詞assumerや,coconstructionという,意味は分かるが普通のフランス語辞書には採用されていない語の使用など,さらにはlibérer les énergiesといういかにも「新鮮な印象を与える」言い回しなど,どれをとっても伝統的な政治家のレトリックとは明らかに異なる。そうした「新しさ」こそが,「新世界」を目指すマクロンが与党に広く支持されるゆえんである。

そうした新しい言説を特徴づけているのは,「真実を直視することlangage de vérité」,「合理化の追求recherche de la rationalisation(「有効性の義務devoir de l’efficacité」という),「競争力の確保(devoir de la) compétitivité」,「教育的配慮travail de pédagogie」などの言葉ないし表現である。大統領だけでなく,フィリップ内閣の閣僚が競ってこうした言葉遣いを取り入れている。

これも別の機会にすでに書いたことだが,マクロンは西洋古典に深く精通し,高等師範学校への進学を目指したこともある教養人であり,かなり特殊なレトリックを使う。たとえば他動詞であるfaireとかtransformerを自動詞のように使ったり,agirとかavancerなどの動詞を目的補語なしに,それだけで完結しているかのように用いたりする(「絶対的用法emploi absolu」という)。一方で,古典や文学に関する知識を持たないと本当の意味がつかめない単語や言い回しを好んで用いるが,他方では「企業文化culture de l’entreprise」に大きく影響されて,合理性とか利潤の論理に基づいたビジネス・ニュースピークnovlangue du businessを自由に使いこなす。

確かに,文学的素養はマクロンや彼の支持者たちの言説に「趣味の良いbon goût」外観を与えている。それはサルコジ元大統領やヴォーキエ共和党首をはじめとして,「国民戦線FN」党首マリーヌ・ル・ペンMarine Le Penとか「反抗するフランスFI」の指導者ジャン=リュック・メランションJean-Luc Mélenchonの攻撃的で庶民的agressif et populaireな言葉遣いと対照をなすものである。

そればかりか,マクロンは好んで古めかしいとしか言いようのない言い回しや単語を用いるし,フランス人でも辞書で調べないと意味が分からないような特殊な用語を用いることさえある(一つの例を挙げると哲学者ポール・リクールPaul Ricoeurに独自の用語であるipséité(『ロワイヤル仏和』は哲学用語と断ったうえで,「そのもの性,自己同一性」という訳を示している)を種々の機会に利用して,一部のウェブサイトで揶揄された)。このipséitéについて,2018年2月2日付『ル・パリジアン』紙は,同じくマクロンの発言にしばしば登場する心理学用語のrémanence(「残像,残感覚」)とか医学用語のidiosyncrasie(「特異体質,特異な性質」)よりもさらに珍しい語であるとしている。

こうした教養をひけらかすような発言は,多くの失言や一部マスコミ関係者との過度に親密な関係が厳しい批判を浴びたフランソワ・オランドや,俗語的な表現を多用することをためらわないニコラ・サルコジという直接の前任者ふたりとの違いを際立たせ,大統領の権威を強調しようとする広報戦略の一環と解釈されている。しかし「理論化された衒学趣味pédantisme théorisé」が,逆にマクロンのイメージを傷つける危険をはらんでいることも明らかである。なぜなら,彼とその支持者たちが何よりも重要視した既存政治家やエリートの支配に終止符を打ち,「国民に近い新しい指導者」として振舞ううえで,文学や哲学の分野における深い教養を前面に出すことは不利だからである。マクロンが時として,俗語を通り超えて卑語とさえみなされている単語を使うのは,こうした危険を意識してのことだろうか。

それはともかく,マクロンと彼に近いスタッフが多くの英語を頻繁に使い,経営ニュースピークを駆使することは,大統領と国民の距離を縮めることには決して役立たないだろう。とくに,マクロンの当選から1年近くがたった2018年3月に発表したフランス国鉄SNCFの「改革」は,1980年代に日本で進められ,当時の国内おいて最も闘争的で反体制的であった国鉄労組の完全な解体につながった,「国鉄の分割・民営化」を想起させざるを得ない。フランス政府がこの改革を正当化するために展開している論理は,まさに経営者の論理に基づくものである。しかも,2017年秋の労働法典改革の時と同じように,SNCF改革も国会における詳細な討議を省略する授権法loi d’habilitationのみの審議による政令ordonnanceによるものとされているために,反対運動もマクロンの当選以降ではもっとも大規模なものになる可能性がある。

プロジェクト 2

8. ニュースピークの変遷

ここで冒頭に引用した,ブルディユーとヴァカンが2000年5月の『ル・モンド・ディプロマティック』に発表した文章に戻ってみたい。そこで二人の筆者がニュースピークあるいは「新しいグローバル普及言語」と呼んだものに含まれていた単語は,ほとんどすべて,たとえ最初は英語であってもフランス語に訳されたものだった。もっとも典型的なものを挙げると,「グローバル化mondialisation」,「柔軟性flexibilité」,「ガバナンスgouvernance」,「雇用されうる能力(エンプロワイアビィティ)employabilité」,「アンダークラスunderclass」,「排除exclusion」,「ニューエコノミーnouvelle économie」,「ゼロ・トレランスtolérance zéro」,「共同体主義communautarisme」,「多文化主義multiculturalisme」,「ポストモダンpostmoderne」,「エスニシティethnicité」,「少数派minorité」,「アイデンティティーidentité」,「細分化fragmentation」などである。

日本語では英語がそのままカタカナで使われたり,訳されているとしてもいかにも「こなれていない」日本語になっていたりする単語まで,多くがフランス語として普通に通用する訳を与えられている(もっともemployabilitéとかgouvernance,multiculturalismeは,もともとフランス語として持っていた意味とは異なる意味で使われている。またunderclassにはquart-mondeというフランス語訳を充てることが可能ではあるが,両者の意味は部分的にしか重ならない)。ここでより注目に値するのは,ブルディユーとヴァカンが挙げているニュースピークがほぼすべて,20世紀の最後の25年間に顕著になり,21世紀に入ってもなお全盛を誇っている「新自由主義経済néo-libéralisme」を象徴する用語であることだろう。ブルディユーらはこの「新自由主義革命」に対する批判を隠していない。その論旨を要約すると次のようになる。「新自由主義を標榜する人たちは,『(自由)市場の合理性』とか,『(文化的)アイデンティティー」を認知する必要,『(自己)責任』の再確認といった概念について,それらが歴史の中に張り巡らす根っこを消し去り,世界全体に広げ,グローバル化している。これらの常套句は,メディアで繰り返されるあまり,ついには一般常識になった。それらがフォード主義やケインズ主義が過去のものとなったアメリカ社会という,特異な歴史状況の中における複雑であり,批判の対象ともなっている現実を映し出しているにすぎないことが忘れられている。このアメリカ社会は今や,福祉国家の解体と,それに付随する刑罰的国家の異常発達,労働組合運動の粉砕,『株主価値』を唯一の基盤とする企業概念の圧倒的な支配,不安定雇用と社会的不安の拡がりなどを特徴としている。*」相当に難解な文章だが,これでも原文よりはかなり読みやすくしたつもりである。

ブルディユーとヴァカンは,ただ経済分野における新自由主義に対する反対を明らかにしているだけではない。彼らの主な関心はアメリカの大学,さらにはそれを超えてアメリカ社会全般を特徴づけている,「多文化主義」に向けられている。彼らによれば,この語の意味はヨーロッパとアメリカで微妙に異なっている。すなわち,ヨーロッパにおける「多文化主義」は市民生活において多様な文化の共存を認めることを意味しているが,アメリカでは黒人の疎外が現在でもなお続いていることや,「アメリカン・ドリーム」の危機を指しているのである。そして,そうした「多文化主義」は「グルーピズム(集団主義)」,ポピュリズムおよび道徳主義という,アメリカの国民的考え方に固有の欠陥に結び付く。

9. ブルディユーの時代と現在 ニュースピークの違い

「グローバル化」という概念についても,それがアメリカの圧倒的な力をあたかも自然の法則に沿う必然のように見せる,文化的エキュメニズムないしは経済的な宿命のように見せる役割を果たしているというのが,ブルディユーらの考えである。

このような主張は,とくに1990年代にブルディユーが極めて政治的な発言を繰り返したことを考えれば,不思議ではないかもしれない。ただし,当時は保守的論客からの批判にのみさらされていたこうした主張が,今やごく限られた少数派から支持されるだけになり,ブルディユーらが批判したグローバル化や経済的合理性,自己責任,アイデンティティーなどの語や考え方が広く常識として受け入れられていることは疑えない。ただ,もっぱら言葉の問題から考えるとき興味を引くのは,今から30年近く前にはその多くが英語そのままではなく,可能な限りフランス語に訳して用いられていた「ニュースピーク」用語が,現在では英語のまま用いられているだけでなく,英語を使うことが一種のステータス・シンボルになっているという事実である。

こうした「言語的エリート主義」と政治的ポピュリズムがどこまで共存できるのか。現時点ではまだ判断が難しい。しかし,「ニュースピーク」を操る人々と,大都市郊外や農村で社会的な疎外を日常的に肌で感じている人々との間には,大きな溝があることは否定できないはずである。**


*これは原文をかなり大幅に要約したものである。原文は次のとおりである。

Outre l’effet automatique de la circulation internationale des idées, qui tend par la logique propre à occulter les conditions et les significations d’origine (3), le jeu des définitions préalables et des déductions scolastiques substitue l’apparence de la nécessité logique à la contingence des nécessités sociologiques déniées et tend à masquer les racines historiques de tout un ensemble de questions et de notions — l’« efficacité » du marché (libre), le besoin de reconnaissance des « identités » (culturelles), ou encore la réaffirmation-célébration de la « responsabilité » (individuelle) — que l’on décrétera philosophiques, sociologiques, économiques ou politiques, selon le lieu et le moment de réception.

Ainsi planétarisés, mondialisés, au sens strictement géographique, en même temps que départicularisés, ces lieux communs que le ressassement médiatique transforme en sens commun universel parviennent à faire oublier qu’ils ne font bien souvent qu’exprimer, sous une forme tronquée et méconnaissable, y compris pour ceux qui les propagent, les réalités complexes et contestées d’une société historique particulière, tacitement constituée en modèle et en mesure de toutes choses : la société américaine de l’ère postfordiste et postkeynésienne. Cet unique super-pouvoir, cette Mecque symbolique de la Terre, est caractérisé par le démantèlement délibéré de l’Etat social et l’hypercroissance corrélative de l’Etat pénal, l’écrasement du mouvement syndical et la dictature de la conception de l’entreprise fondée sur la seule « valeur-actionnaire » , et leurs conséquences sociologiques, la généralisation du salariat précaire et de l’insécurité sociale, constituée en moteur privilégié de l’activité économique.

Il en est ainsi par exemple du débat flou et mou autour du « multiculturalisme » , terme importé en Europe pour désigner le pluralisme culturel dans la sphère civique alors qu’aux Etats-Unis il renvoie, dans le mouvement même par lequel il les masque, à l’exclusion continuée des Noirs et à la crise de la mythologie nationale du « rêve américain » de l’« opportunité pour tous » , corrélative de la banqueroute qui affecte le système d’enseignement public au moment où la compétition pour le capital culturel s’intensifie et où les inégalités de classe s’accroissent de manière vertigineuse. Pierre Bourdieu et Loïc Wacquant : « La nouvelle vulgate planétaire », Le Monde diplomatique, mai 2000, pages 6 et 7

**この点について,マクロンが大統領に当選してからフランスの一部マスコミで用いられるようになった,字面だけを見てもすぐにはその意味が理解できない表現がある。(théorie de) ruissellementがそれである。これも実はサプライサイド経済学économie de l’offreの中心的な思想の一つとみなされているもので,日本では一般に英語をそのままカタカナにして「トリクルダウン理論」というが,専門家の間では「均霑理論」という呼び方もある。ごく単純化して言えば,「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」という考え方に基づいている。日本でも,「アベノミクス」の特徴とされているが,一般報道紙で取り上げられたことはほとんどないように思える。新自由主義が世界を席巻し始めた1970年代終わりごろから,この考え方が大部分の資本主義国で多少なりとも主流になってきたが,それが言われているような効果を発揮した例はない。その理由としては,新自由主義の必然的な結果である社会格差の深刻化を挙げることができる。また,伝統的な産業が環境面における壁に突き当たっている一方で,新しい産業とみなされる活動が,雇用の増大につながらないどころか,むしろ短期的には雇用破壊をもたらしているという事実もある,そしてまた,富の偏在に伴って,少数派が資産をますます蓄積することは,必ずしも新たな富の生産につながらない。

ところで,マクロンは2017年10月にテレビ局TF1とのインタヴューで,「(ザイルで互いに結ばれた)登山パーティーの先頭に立つものpremier de cordée」という言い回しで,トリクルダウン理論を擁護しているかのような発言をした。フランスのマスコミでruissellementという語がこの意味で使われるようになったのは,これがきっかけの一つになったと想像される。多くの解説者から批判されたにもかかわらず,大統領はこの考え方に強い執着を見せている。たとえば,2018年3月,同じテレビ局と行ったインタヴューでも,ruissellementという語そのものは使わなかったとはいえ,premier de cordéeという表現を再び用いて,基本的に富裕層の資産を増やすことが社会全体を富ませることにつながる,という考えを変えていないことを示した。

1 1. Novlangueという語 2.「経営ニュースピークnovlangue managériale

2 3. Disruptionという言葉 4. Disruptionの使われ方

第3回 5. Euphémisation – 経営ニュースピークのもう一つの特徴 6. ニュースピークの流行と複数のフランス語

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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「ニュースピーク」-政治の言語と経営の言語(第3回/全4回)【時事フランス語への視点】

5. Euphémisation – 経営ニュースピークのもう一つの特徴

「婉曲語法」と言われて,その意味をすぐに理解できる人がどのくらいいるだろうか。しかし,フランス語でeuphémismeという語はそれほど特殊な語ではない。仏和辞書で調べてみると,「婉曲語法」のほかに,「婉曲な言葉,遠回しの表現」となっている(『プチ・ロワイヤル仏和』)。この訳が間違っているとは言わないが,それではいかにも物足りない。なぜなら,フランス語のeuphémismeは,単に「遠回しな」あるいは「持って回った」表現というだけでなく,「不快なことをオブラートに包んで述べる」というニュアンスを含んでいるからである。

これこそまさに経営ニュースピークを特徴づけるものの一つだという。すでに引用した2018316日付『ル・モンド』の記事によると,社会学者アニエス・ヴァンデヴェルデ=ルガルがこのことを強調して,「時として肌で感じる現実より言葉が優位な位置を占め,あたかも魔法の単一思想pensée uniqueであるかのような役割を果たすことがあるLes mots en viennent parfois à prendre le pas sur les réalités vécues et fonctionnent comme une véritable pensée unique」と述べている(ちなみに,「単一思想」という表現は日本ではあまり見かけないが,フランスでは20世紀の末頃から,主として政治やメディアの世界で,他人を「大勢順応主義者conformiste」と非難するときに用いられてきた常套句である)。たとえば,あまりにも否定的なニュアンスを持つ語は企業内で使用を禁じられることがあるのは当然だろう。そこまでいかなくても,「従業員employé」という代わりに「部内ゲスト(インナー・ゲスト)」といったり,「解雇するlicencier」のではなく「自由にするlibérer」といったりする経営者がいる。これは極端な例かもしれないが,フランスではすでにはるか以前から,従業員の大量解雇が問題になる場合,「社会計画plan social」を実施するといわれてきた。

いうまでもないが,政治の世界で「婉曲語法」が多用されるのは,国を問わない。古い例だが,日本では長い間,「戦争」と言わずに「事変」と称していたし,「敗戦」は今でも「終戦」である。フランスでも,「(予算の)削減coupe budgétaire」は「最適化optimisation」になるし,移民の「国外追放expulsion」は「国境への見送りreconduite à la frontière」あるいは「遠ざけéloignement」と言われる。さらには,近年のテロ対策に関連してしばしば問題になった「夜間の家宅捜索perquisition nocturne」は,ただ「夜間の住居訪問visite domiciliaire de nuit」と呼ばれる。

これらは「婉曲話法」が政治の分野に持ち込まれたいくつかの例にすぎない。フランスに話を限ると,20175月に大統領に当選したエマニュエル・マクロンは就任早々,「旧世界」との断絶を現実のものとするために,選挙で公約した「改革」を矢継ぎ早に実行しようとした。たとえば「連帯資産税impôt de solidarité sur la fortune=ISF」の改正や労働法典Code du travailの「改革」であり,国鉄Société nationale du chemin de fer=SNCFの改組である。確かにそうした改革を進めるにあたっては,あらかじめ関係各方面との協議がすすめられたが,最終的には協議内容にかかわらず,政府が最初から予定していた施策を,時には強引な手法で押し通した。ISFについていえば,従来は動産,不動産いずれをも対象としていたこの税が,改正後は不動産だけに課税されることになった。その結果,金融資産のみを所有している人は,それがいかに巨額であろうとも,ISFの適用を受けないことになった。次に労働法典に関しては,「柔軟性と安定flexibilité et sécurité」を共に保証するとしながらも,実際には解雇の条件を緩和したばかりか,退職金額を実質的に削減した。さらに国鉄については,現状を過度に暗く描き出して,税金の無駄遣いをやめて,合理化を徹底させるとの論理の下で,部分的な競争原理の導入,職員の地位保障の段階的廃止,不採算路線の撤廃などを打ち出し,労働者の強い反対を招いている。こうした「改革」のどれを取ってみても,富裕層の既得権をますます強化する一方で,労働者や被雇用者の既得権に様々な枠をはめるものである。確かにSNCFに関するフランス政府の言説の多くは,日本では1980年代から90年代にマスコミの支持のもとに実施に移された国鉄の分割・民営化の際に用いられたものと大きな違いはない。しかし,現在のフランスではそこに経営ニュースピークに基づいた発想と,人事管理的な行動原理の勝利を見る論者も多い。実際,『ル・モンド』はあるとき,「マクロンは共和国の人事部長のように振舞っているMacron se comporte en DRH de la République」と書いたことがある(20171216日付同紙)。


6. ニュースピークの流行と複数のフランス語

アニエス・ヴァンドヴェルド=ルガルの著書から引用したニュースピークの例は,明らかに誇張され,戯画化されたものだろう。しかし,エマニュエル・マクロンがごく近いスタッフと内々に議論するときに英単語を多用することは知られている。それどころか,伝統的な保守を代表する政治家であり,フランスの「国民的なアイデンティティー」の擁護を唱えるロラン・ヴォーキエLaurent Wauquiezも,20182月にリヨンの商業学校で非公開で行った講演の中で,一部メディアの報道を批判して「でたらめ,でっち上げ」を意味する英語の俗語bullshitという語を用いたことで,大きな反響を呼んだ。ヴォーキエが高等師範学校という全国でも最難関とされる秀才校の出身であるだけに,なおのことこうした言葉遣いが衝撃を持って受け止められたのだろう。

しかし,作家ジャン=ミシェル・ドラコンテJean-Michel Delacomptée2018年にファイヤールFayard社から出版した『われらのフランス語Notre langue française』と題する著作には,「高等言語haute langue」から「郊外団地の言語langue des cités」まで,「専門家の技術言語langue technique, celle des spécialistes」や「混血言語langues métissées」,「地方・少数派言語langues régionales ou minoritaires」,「街頭言語langue des rues」,そして「標準言語langue standard」と,全部で7種類のフランス語が存在すると書かれている。そして,「標準言語」は構造を失いse déstructurer,貧困化の一途をたどっている,というのが著者の考えである。そして,このように言葉がその構造をなくしていくと,それを支える思考も軟弱なものになり,特徴のない無気力なものになる。

かつて私は,和文仏訳をテーマにした文章の中で,フランス語における「言語レベルniveau de langue」の違いを意識することの重要性を強調したことがある。その時には主として書き言葉と話し言葉,あるいは文語体と口語体を正しく使い分ける必要を説いたのだが,フランス語がこのように細分化され,フランス人の間でもお互いに理解しあうことが難しくなっているということになると,何が「正しいフランス語」なのか考え直す必要があるのかもしれない。

ドラコンテが『ル・モンド』とのインタヴューで述べているところに従えば,日常生活で用いられる実用的で実利につながる言葉でさえ,ますます貧しくなり,正書法orthographeは軽視されるようになっている。こうした中で,「技術・科学という土壌を耕す新しい方言ce néodialecte qui laboure sur les terres technicoscientifiques」であるニュースピークが幅を利かせている,ということになる。言語の貧困化を明らかに示す例として,彼はイギリスの児童文学作家イーニッド・ブライトンEnid Blytonによる『5人と1ぴきClub des cinq』のフランス語訳が,最初に出版された1955年と最新の訳である2006年の間にいかに変化したかに注目している。約50年の間に,多くの描写だけでなく,形容詞までもがなくなっているだけでなく,動詞は現在形だけで使われているという。

続く(次回は7月10日更新予定)

1 1. Novlangueという語 2.「経営ニュースピークnovlangue managériale

2 3. Disruptionという言葉 4. Disruptionの使われ方

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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「ニュースピーク」-政治の言語と経営の言語(第2回/全4回)【時事フランス語への視点】

3. Disruptionという言葉

「経営ニュースピーク」の中でもdisruptionという語は,特別に多く用いられている印象がある。この語はもともとフランス語にもあったし,現在でも語源を同じくする形容詞disruptifはPRにもAntidoteにも項目として採用されているから,英語からの借用というには当たらないかもしれない。さらに,disruptionはかつてフランス語から英語へ「移植」された語だということもできる。しかし,2018年3月21日付『ル・モンド』が「disruptionは肯定的なものなのか,われわれに進歩をもたらすものなのかLa « disruption » est-elle positive et nous fait-elle progresser ?」と題する記事で指摘しているように,マクロンが大統領に当選した後でこの語が突然,政治家やメディアの言説に頻繁に登場するようになった。一方,『リベラシオン』は,すでに1年以上前の2017年5月17日に,「disruptionをいかに生かすかDe l’art de la disruption」と題した記事を掲載している。同紙によれば,「新大統領がdisruptifであることは明らかであるIl est clair que notre nouveau président est «disruptif»」からこそ,disruptionがフランス語に戻ってきたのだという。

ところでこの語は何を意味しているのか。英和辞典でdisruption,あるいはその動詞形disruptを調べても,とても満足のゆく答えは見つからない。たとえば現代英語に強く,きわめて多数の用例を掲載していることで知られている『英辞郎』で見ても,断絶,混乱,途絶,分裂,崩壊といった訳語しか出ていない。先に引いた『ル・モンド』の記事によれば,この語は現在ではもっぱらマーケティング用語として用いられているという。そのような用法が確立したのはどうやら1990年代の後半らしいが,その正確な意味は今ひとつはっきりしない。確かに語源的に見れば断絶を意味するruptureとか,亀裂を意味するfractureと同根であり,断絶とか分裂,あるいは決別をまず思わせる。それから連想されるのは,経済や技術の分野でかなり以前から用いられている「ブレークスルー」という語である。これはネット上の辞書Weblioによれば,「行き詰まり状態を打開すること,科学,技術が飛躍的に進歩すること,難関や障害を突破すること」であり,中でも「従来の考え方の枠を大きく打ち破った考え方で解決策を見出すこと」と解釈できる。実は,break throughのフランス語訳として定着したものはなく,場合によってrupture, percée, avance, déblocage, découverte capitaleなどが使い分けられている。

マーケティング業界の用語としてのdisruptionについては,広告大手の電通系のウェブサイト「電通報」に「デジタル・ディスラプション時代の意思決定 ディスラプション時代の意思決定未来に先回りする思考法」と題する記事が出ているのを見つけた(https://dentsu-ho.com/articles/5148)。その中に「さまざまなテクノロジーによる破壊的なイノベーション=デジタル・ディスラプションに関する話題が急激に増えている」とする記述がある。また,「私の事典」というタイトルを持つウェブサイトには,「ビジネスの世界で,ディスラプト/ディスラプションの言葉がカタカナ英語として使われることがある。それらの言葉には,変革のための破壊という意味合いが込められていると思う。イノベーション{技術革新}によって,既存の技術が取って代わるのは世の常である」と書かれている(http://d.hatena.ne.jp/mydictionary/20160425/1461549837)。最後の文の意味はかなり漠然としているが,こうした説明のどれを読んでも,従来からある「ブレークスルー」や「イノベーション」とどこが違うのか,必ずしも判然としない。

いずれにしろ,こうした説明からも明らかなように,disruptionという語はその本来の意味が持っている否定的な語感とは異なり,きわめて肯定的なニュアンスで用いられている。それはあたかも,現状を変えるものは本質的に評価されるべきであり,逆に変化を遅らせようとするものはそれ自体として断罪されなければならない,と言っているかのようだ。どこかの国で,従来の政府与党を「ぶっ壊す」と宣言して人気を得て,反対派をすべてひっくるめて「守旧派」と断罪した首相がいたことを,思い出させるではないか。

4. Disruptionの使われ方

話がいささかそれた。ただしここで一つ確認しておくべきことがある。現在のフランスでdisruptionを標榜している人々がその成功例として最初に持ち出すのが,従来のタクシーやハイヤー(フランスにはハイヤーはこれまでほとんど存在していなかった)を追い落とす勢いを見せる,スマホを利用した自動車配車アプリ「ウーバー」を運営する事業とか,民泊提供者と利用者を結び付けるアプリ「Airbnb」などである(「ウーバーUber」はフランス語化されて,ubériserとかubérisationなどの新造語を生み出している)。こうした新しい経済活動が本当に「創造的破壊」と形容されるに値するかどうかについては議論の余地があるだろう。しかし,それらが従来型の事業を大いに脅かしたことは疑えない。他方,それらがその発明や開発に携わった人々や,その最初の利用者たちに大きな利益をもたらしたのは確かだとしても,社会や経済全体に本当に役立っているかどうかについては,意見が分かれている。ただし,そうした新しい事業に事業主あるいは出資者としてではなく,従業員として参加する人の大半が,劣悪な労働条件と,決して十分とは言えない収入を受け入れざるを得ない立場に置かれていることは,事実と言わざるを得ない。この点を指摘したのが,経済専門日刊紙「ラ・トリビュンヌ」である。前に引用した『ル・モンド』によれば,disruptionの理論家の一人であるクレイトン・クリステンセンClayton Christensenが2014年3月10日付「ラ・トリビュンヌLa Tribune」紙上で次のように述べている。

「disruptionが姿を現すのは,従来は利用が難しく,価格も高かった製品やサービスが,大勢の人に,安価で利用できるようになるときである。disruptionは既存のものより優れたものを提供すること(それはまさにイノベーションの役割である)で市場に変化をもたらすのではない。そうではなくて,市場をより多くの人の手に届くものとすることで,それを変えるのである。elle (la disruption) se manifeste par un accès massif et simple à des produits et services auparavant peu accessibles ou coûteux. La « disruption » change un marché non pas avec un meilleur produit – c’est le rôle de l’innovation pure – , mais en l’ouvrant au plus grand nombre」

「もしdisruptionが既存の社会構造をますます加速化する速さで破壊することであるならば,それは「ソフトな」野蛮さbarbarie softとみなされるべきである。」このように述べたのは,フランスの哲学者ベルナール・スティグレールBernard Stieglerである。

続く

11. Novlangueという語 2.「経営ニュースピークnovlangue managériale

3 5. Euphémisation – 経営ニュースピークのもう一つの特徴6. ニュースピークの流行と複数のフランス語7.  政治の「新世界」とニュースピーク

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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「ニュースピーク」-政治の言語と経営の言語(第1回/全4回)【時事フランス語への視点】

エコール・プリモの「応用編時事フランス語和文仏訳」でおなじみ、『時事フランス語読解と作文のテクニック』(大修館書店)の続編を執筆中の彌永康夫先生から、興味深い記事をいただきました。タイトルは「ニュースピーク」。政治と経営で用いられている用語の特徴に着目した記事です。ジョージ・オーウェルの『1984年』がまるで現実のものとなりつつあるように思える今だからこそ、貴重な考察に思えます。4回に分けて掲載します。

1. Novlangueという語

Novlangueという語がある。それを最初に見たのはいつのことか,よくは覚えていない。たぶん,『ル・モンド・ディプロマティック』の2000年5月号に掲載された,ピエール・ブルディユーPierre Bourdieuと,彼の弟子でありアメリカのカリフォルニア大学で社会学を教えるロイック・ヴァカンLoïc Wacquantによる,「新しいグローバル普及言語La nouvelle vulgate planétaire」と題された文章を読んだ時ではないか。その書き出しに「すべての先進国において,企業経営者や国際高級官僚,メディアにしばしば登場する知識人,さらには高名なジャーナリストなどが,奇妙なニュースピークを使い始めている。一見したところ出どころさえ判別できないその語彙が人口に膾炙している…Dans tous les pays avancés, patrons et hauts fonctionnaires internationaux, intellectuels médiatiques et journalistes de haute volée se sont mis à parler une étrange novlangue dont le vocabulaire, apparemment surgi de nulle part, est dans toutes les bouches …」という一節があった。vulgateもnovlangueもその時に初めて目にしたか,たとえその前に目にしたことはあっても意味を忘れていたように思う。辞書で調べてみたところ,vulgateは「ウルガタ(4,5世紀に聖ヒロエニムス(Saint Jérôme)が訳したラテン語聖書;1546年のトレント公会議によってローマ教会公認の聖書とされた)」(ロワイヤル仏和)と説明されている。これではブルディユーとヴァカンの文章を読むうえで何の参考にもならない。しかし,vulgateという語がvulgaireやvulgarisationと同じ語源を持っていることは容易に想像できる。一方,novlangueはロワイヤル仏和にもスタンダード仏和にも出ていない。ただ,その語源を考えれば,言語を意味するlangueと,新しいを意味するnouveauを組み合わせた造語であると想像できる。当時,私はPRなどでも両語の意味を調べたが,それよりも『ディプロ』でこの二つの語がほぼ同義語のように用いられていることが強く印象に残った。

ちなみに,PRによるnovlangueとvulgateの語義説明は次のようになっている。

novlangue Langage stéréotypé dans lequel la réalité est édulcorée (cf. Langue de bois). Les clichés de la novlangue politique

vulgate 1. Relig. La Vulgate, version latine de la Bible, due à saint Jérôme et adoptée par le concile de Trente.

2. Par extension Texte, idéologie dans une version destinée au plus grand nombre. La vulgate marxiste, libérale. « la vulgate psychanalytique sur les bienfaits de la parole » (E. Carrère)

なお,novlangueについては語源の説明として「1948年にジョージ・オーウェルが小説『1984年』で作り出した英語ニュースピークの直訳calque de l’anglais newspeak, terme créé par George Orwell en 1948 dans son roman 1984」となっているのだが,その頃の私は『ル・モンド・ディプロマティック』の記事に対する興味のほうが強かったため,この説明については深く考えなかった。ジョージ・オーウェルの小説を読んだ人ならnewspeakがいかなる意味で使われているかを知っているだろうが,そうでない読者のために,『ウィキペディア』の「ニュースピーク」という項目からさわりの個所を引用しておこう。

「ニュースピーク(新語法、Newspeak)はジョージ・オーウェルの小説『1984年』(1949年出版)に描かれた架空の言語。作中の全体主義体制国家が実在の英語をもとにつくった新しい英語である。その目的は、国民の語彙や思考を制限し、党のイデオロギーに反する思想を考えられないようにして、支配を盤石なものにすることである。…その目的は、党の全体主義的イデオロギー(「イングソック」、Ingsoc、映画版では独裁政党の名前でもある)にもとづいて国民の思想を管理し、その幅を縮小し一方向に導き、イングソックのイデオロギーに反する思考(「思考犯罪」、thought crime、ニュースピークでは「crimethink」)ができなくなるようにすることである。ニュースピークは国民の思考を単純化するために、辞典の改訂版が出るたびに旧語法に由来する語の数を削減しており、オーウェルは作中で「世界で唯一、毎年語彙の数が減ってゆく言語」と述べている。」

2.「経営ニュースピークnovlangue managériale」

ところで最近,フランスの新聞を読んでいて,再びnovlangueとvulgateという語が頻繁に登場していることに気が付いた。たとえば2017年12月20日付フランス共産党機関紙『リュマニテ』に,「権力を握ったスタートアップ・ネーション エマニュエル・マクロン,自らの発言の責任を問われるLa « start-up nation » au pouvoir : Emmanuel Macron pris aux mots」と題して掲載された記事の中で,「…彼(マクロン)は英米の金融用語と並んで,階級的な挑発と本格的なニュースピークを用いることで,言葉によって点数を稼ぎ続けようとしている…il compte continuer à marquer des points avec les mots, en utilisant à la fois le vocabulaire anglo-saxon de la finance, les provocations de classe et une véritable novlangue」という一節がある。また,2018年3月16日付『ル・モンド』には,「企業のジャルゴン(仲間うちにだけ通じる特殊用語。専門用語。職業用語。—ウェブサイト『コトバンク』による),理解不能な方言le jargon d’entreprise, dialecte impénétrable」という記事の冒頭に「略語や英語からの借用,そして強い響きを持たない概念からなる経営ニュースピークが,言語に関する不安定な状況を作り出しているla novlangue managériale, mélange d’acronymes, d’anglicismes et de concepts évanescents, crée une « insécurité linguistique »」と書かれている。

この「経営ニュースピーク」を極端な形で戯画化すると,上に挙げた『ル・モンド』の記事(社会学者アニエス・ヴァンドヴェルド=ルガルAgnès Vandevelde-Rougaleが2017年にエレスErès社から出版した『経営ニュースピーク 支配と抵抗La Novlangue managériale, Emprise et résistance』を紹介している)に見られる実例のようになる。ここではまず原文を引用するほかにない。

« Bien souvent, le premier réflexe de survie du stagiaire arrivant dans l’« open space » sera alors de se constituer un lexique lui permettant de saisir les enjeux des conversations alentour. Sinon, impossible de comprendre cette phrase qui vous serait adressée par un supérieur sur le ton de l’évidence : « Tu prends la demi-journée pour benchmarker la solution et j’attends ton feedback ASAP. Je dois revenir demain vers le client en mode projet ! » S’y ajoutent, par écrit, au fil des mails professionnels, des abréviations toutes plus kabbalistiques les unes que les autres : TL;DR (too long; didn’t read, « trop long, pas lu »), LMK (let me know, « tiens-moi au courant »), TBD (to be determined, « à préciser »)… »

これはフランス語といえるのか,という疑問を抱いても不思議ではない。とはいえ,出だし部分を除けばほとんどが英語から借用した単語や略語で成り立っており,ASAP以外はそのフランス語訳も加えられているので,あえて訳すまでもないだろう。それでも一つだけ説明すると,open spaceと日本語で一般に用いられている「オープンスペース」は同じものではない。日本語では,この語は都市整備の分野で用いられることのほうが多いし,ビジネス関係で用いられるときには「オープンスペース・オフィス」を思わせるだろう。フランス語でもその意味で用いられているには違いないが,それと同時に従業員会議の場,あるいは従業員間の交流の場を意味することも多い。なお,as soon as possibleの略であるASAPについては,日本語版Googleで調べた限りでは,ビジネスメールなどで普通に用いられているようである。

この例を見て明らかなことは,「経営ニュースピーク」にきわめて多くの英語が取り入れられていることである。アメリカのスタンフォード大学でフランス文学を教えるかたわら,政治家の言説を分析する専門家としても知られているセシル・アルデュイCécile Alduyが,2018年3月23日付『ル・モンド』とのインタヴューで挙げている実例だけでも,marketing, deadline, process, streamlining, updater, reminder, timeline, project management, low cost, deal, data, feedbackなどがある。このほかにも,多くの新聞記事に必ずと言ってよいほど出てくるのが,bottom up, team building, performer, task forceなどの語である。

続く

2 3. Disruptionという言葉 4. Disruptionの使われ方

3 5. Euphémisation – 経営ニュースピークのもう一つの特徴6. ニュースピークの流行と複数のフランス語7.  政治の「新世界」とニュースピーク

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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