第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

1.-学生運動から労働者との合流まで

いうまでもないが,「5月革命」が5月になって突然はじまったわけではない。先に記した3月22日のナンテールにおける事件が,その後の学生による「異議申し立てcontestation」運動の発端になった。その後,4月にはアメリカでキング牧師の暗殺が全米に抗議活動を呼び起こしたし,チェコの「プラハの春」が本格化する一方で,ドイツでは学生運動の指導者の1人であったドゥチュケRudi Dutschkeが狙撃されたことに対する抗議デモが広がった。フランスでもナンテールの混乱が続くかたわら,トゥールーズやストラスブールなどでも様々な衝突が発生し,4月27日には,「赤毛のダニーDany le rouge」と呼ばれて,「5月革命」の指導者の中でももっとも広く名を知られるようになったコーン=ベンディットDaniel Cohn-Benditが警察に拘束されるなど,学生と当局,さらには極右団体との緊張が高まっていた。そうした中,1954年のアルジェリア独立戦争勃発以来禁止されてきたメーデーのパリ市内デモ行進が,共産党Parti communiste français=PCFと同党の強い影響下にある労働組合労働総同盟Confédération générale du travail=CGTの呼びかけで,14年ぶりに復活した。そしてその2日後,5月3日にパリ大学本部が置かれているソルボンヌに警官隊が導入されて,排除された学生と警察との衝突が周辺街路に及んで,大混乱を呼んだ。この時には600人近い学生が検挙され,それに抗議するため高等教育教員組合Snesupなどの呼びかけで無期限ストが決定された。これが真の意味で「5月革命」の開始を告げたといってよいだろう。その後,カルチエ・ラタンのほぼ中央に位置する国立劇場オデオン座théâtre national de l’Odéonの占拠とか,街頭における高校生を含む学生デモ隊と治安当局の激しい衝突などがラジオとテレビで連日実況中継され,世論に大きな衝撃を与えた。

政府当局の強硬姿勢が目立つ中,5月10日の夜,街路の各所に設けられたバリケードを挟んで,道路の舗装材として用いられていた敷石をはがして武器とする学生と,催涙ガスや警棒を使用する警官隊の間で大規模な衝突が発生して,「バリケードの夜nuit des barricades」として歴史に記録されることになった。その際には,重傷を負って病院に収容されたものが350人を超えた。この夜のデモに参加したものの数は警察発表でさえ20万人といわれている。

当時はなお,フランスの左翼・革新勢力の中核をなしていた共産党とCGTは,学生運動はもちろん,それに対して次第にはっきりと連帯を見せ始めていた労働者たちの動きに ,一定の枠をはめようと努めた節がある。しかし,それは決して成功していたとは言えない。それどころか5月13日(ド・ゴールが植民地アルジェリアの存続を主張する軍部に担がれて政権に復帰するきっかけとなった,1958年5月の駐アルジェリア軍の蜂起から10年となる日)には,パリだけで主催者発表100万人規模のデモが行われ,多くの産業施設がストに突入した結果,全土が麻痺状態に近くなった。この日から5月27日へかけて,労働者の自主的なストが広がり,参加者は800万とも1000万ともいわれる,フランス史上で空前絶後の数に達した。学生運動と労働者の闘争が一体化していくことは,当時は単に「合流jonction」といったが,2018年の春,フランス国鉄やエール・フランスの長期ストに加えて,各地の大学で学生による校舎占拠が広がった時,マクロン大統領をはじめとする政府当局は,反政府運動の収斂convergence」は見られないと断言した。

全国に広がり,激化するゼネストを前にして,政府は一貫して強硬姿勢を貫いているように見えた。たとえば,ルーマニア訪問を1日短縮して5月19日に急遽帰国したド・ゴール将軍が,同日の閣議で「改革はよいが,混乱はだめだla réforme, oui, la chienlit, non」と言明したと伝えられたが,これは政府が妥協を拒否していることの表れとみられた[1]

[1] ちなみに,このchienlitという語(語源はchier en litと言われている)は16世紀の有名な作家フランソワ・ラブレーFrançois Rabelaisによる『ガルガンチュアGargantua』ですでに用いられている“由緒ある”単語だが,その本来の意味もあいまいで,ヴィクトル・ユーゴーVictor Hugoなどの用例が知られているとはいえ,ド・ゴールによる使用が伝えられるまではきわめて珍しい語とされていた。その後,2015年10月にエール・フランス社の幹部が労使交渉の行き詰まりにいら立った組合員に暴行を受けた時,野党共和党の党首ニコラ・サルコジが再びchienlitという語を用いて政府の無力を揶揄した。ただし,この時には一部のマスコミやインターネット上で,元大統領の言語感覚を皮肉る記事や投稿が相次いだ。

とはいえ,このド・ゴールの発言を記者団に公表した当時の首相ポンピドゥーが,どちらかというと柔軟な態度をとっていたのに対して,ド・ゴール自身は強硬策を断固として主張していたと推測させる材料もある。なかんずく,ポンピドゥーは企業経営者,労働組合の代表をパリ7区のグルネル街rue de Grenelleにある労働省に集め,政府を含めた3者交渉を主宰していた。また,5月28日にド・ゴールが首相にも一言も漏らさず,隠密裏にドイツへ赴いたことと,そこでかつてアルジェの反政府蜂起を指揮したマシュ将軍と会談したことは,ポンピドゥーにとって,ド・ゴールとの間に長い間存在してきた信頼のきずなを傷つけるものに見えた。こうして,5月30日,ド・ゴールと会談した際,ポンピドゥーは辞表を胸に大統領府が置かれているエリゼー宮を訪れたといわれている。実際,ポンピドゥー自身は共産党とCGTを交渉相手とすることで,混乱を収拾しようとしていたようである。そして,5月27日に発表された「グルネル合意accords de Grenelle」

に対する賛否について,反政府勢力の間で明白な意見対立が明らかになった。なかでも学生運動の内部では,「3月22日運動Mouvement du 22 mars」を代表するコーン=ベンディットとフランス全国学生連盟Union nationale des étudiants de France=UNEFの副会長ジャック・ソーヴァジョJacques Sauvageotの間に不和の兆しが見え始めた。ただし,6月の初めまでは各地でストに参加している労働者がその受け入れを拒否していた。

それでも,全職種共通最低保証賃金salaire minimum interprofessionnel garanti=SMIG(その後「全職種共通最低成長賃金salaire minimum interprofessionnel de croissance=SMICと改称された)の35%に及ぶ大幅引き上げ,法定労働時間の短縮,労働者の権利拡大などを定めたグルネル協定が,「5月革命」に大きな転機をもたらしたことは疑えない。また,1968年11月に成立した高等教育基本法loi d’orientation de l’enseignement supérieur(その起草を主導した当時の文部大臣エドガール・フォールEdgar Faureの名をとって「フォール法loi Faure」と呼ばれる)も,高等教育機関の自治を強化するかたわら,その大規模な再編成を定めていた。たとえばそれまで全国に23しかなかった国立大学は68の大学に再編されたし,単一の組織であったパリ大学は,一挙に13に分割された。また,各大学内の学部facultéは「教育研究単位unité d’enseignement et de recherche=UER」と改名された。


2.-「革命」の終焉

共産党とCGTは明らかにゼネストを収束させて,自らの主導権の下でド・ゴール大統領とポンピドゥー首相が導く保守政権を転覆させることを目指していた。5月29日には,CGTが政府の転覆を呼び掛けて大規模なデモを主催したが,パリにおける参加者は80万人に達したともいわれた。一方,時を同じくして開催された閣議の後,ド・ゴールが一時行方不明になったと報道された。実はその時,大統領はドイツのバーデン=バーデンへ飛び,1958年にアルジェリアの反乱軍を指揮したマシュ将軍général Jacques Massuと会談した後,夕刻にフランス東部の小村コロンベ=レ=ドゥー=エグリーズColombey-les-deux-Eglisesにある自宅へ戻っていたのである。この会談で何が話されたか。諸説あるが,「ゴーリスムの記録」を名乗るウェブ・サイト(http://archives.gaullisme.fr/)によれば,意気消沈していた大統領をマシュ将軍が元気づけたという。ただし,その場ではいかなる形でも,国内の混乱に対処するために軍の介入を話題とすることはなかった,と言われている。いずれにしろ,翌5月30日,パリへ戻ったド・ゴールがラジオで国民議会の解散と,繰り上げ国民議会選挙実施を発表すると,それに応えて,同日中に大統領と政府を支持するデモがパリのシャン=ゼリゼを埋め尽くし,100万もの参加者を数えた。

確かに,6月5,6日までは各地で工場や職場の占拠が続いていた。しかし,5月30日が「68年5月」における学生と労働者の反体制運動に初めて歯止めをかけ,ド・ゴールを支持する体制側の反転攻勢の開始を告げたことは明らかである。政府側は6月6日にパリ近郊フランFlinにあるルノーの工場へ警官隊を導入して,実力でストを中止に追い込んだばかりでなく,同10日にはソショーSochauxのプジョー工場で機動隊Compagnie république de sécurité=CRSとスト中の労働者の衝突が18時間に及んで,死者1人を出したほか,負傷者も多数に上った。

同日,繰り上げ国民議会選挙が公示され,その2日後には選挙期間中,街頭におけるあらゆるデモ行動が禁止されただけでなく,一部の極左団体が解散を命じられた。それにもかかわらず,学生や労働者の運動が直ちに沈静化したわけではない。しかし,6月5日にパリの地下鉄Régie autonome des transports parisiens=RATPでストが一部中止され,部分的にではあるが運行が始まったのに続いて,12日には高等学校で授業が再開されたし,19日にはルノーの工場で,さらに24日はプジョーの工場で操業が再開された。

そして,6月23,30日に実施された国民議会選挙では,「5月危機」がもたらした混乱の責任を問われただけでなく,内部における意見対立に悩まされた左翼諸党・諸勢力を抑えて,保守派が記録的な大勝を収めた。ド・ゴールを支持する共和国防衛連合Union pour la défense de la République=UDRと独立共和党Républicains indépendantsが,全議席485のうち358を獲得したのである。確かに,得票率でみれば両党の合計が43.6%にとどまったのに対して,共産党が20%,民主社会左翼連合Fédération de la gauche socialiste et démocratique=FGSDが16.5%と,それほど大きな差とは言えないが,第5共和政独特の選挙制度のため,分裂を乗り越えられない左翼は国民議会では壊滅状態となった。

こうして,「退屈していた」フランスを2か月にわたって揺るがせ,麻痺させた学生と労働者の運動は,政府の実力行使に次々と鎮圧され,多くの活動家が逮捕されたり,職場を追放されたりした。一見,体制側の完勝とさえいえる形で終わりを迎えた「5月革命」だが,しかし,その後のフランスに,社会的にも思想的にも消すことのできない深い影響を残し,現在でも残し続けている。

続く(次回は9月14日*更新予定)

*【訂正とお詫び】本記事掲載時に更新日程記載の誤りがありました為、訂正いたしました。

第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

第3話 「5月革命」に関する評価の変遷 – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

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