第1話 1968年の国際・国内情勢 – 連載『5月革命 50周年』

『5月革命 50周年』

彌永康夫

1968年5月にフランス全土をほぼ1か月にわたって麻痺させた「事件événements」は,日本では今でも「5月革命révolution de mai」と呼ばれている。今年はそれからすでに半世紀がたったことになり,年初からフランスのマスコミでは,数多くの特集が組まれている。ただし,少なくともここ20年以上,フランスでこの関連で「革命」という語が用いられることは例外的である。「事件(出来事)」さえも省いて,単に「68年5月Mai 68」と呼ぶのが最も一般的である。

ところで,私がフランス語の授業を担当し始めて間もない2000年代の初めころ,仏文和訳の授業で「5月革命」をテーマに取り上げたことがあった。ただし私には,聴講生の大半にとってこれは歴史上の事件ではあっても,その内容も意味も漠然としか知らないか,まったく未知のものであり,身近に感じるなどありえない,ということには考えも及ばなかった。そのことに気づいて愕然とした記憶がある。

それゆえ,まずは「5月革命」がどのようなものであったかを振り返ってみることにしよう。もっとも,そのためには,当時のフランスと世界の全体的な状況を大まかにではあれ,想起しておくことが必要だろう。

1968年の国際・国内情勢

1.-「フランスは退屈している」

1968年3月15日付の『ル・モンド』紙上に,同紙の政治部長で,フランスの内政に関する鋭い分析で知られたピエール・ヴィアンソン=ポンテPierre Viansson-Pontéが署名した,「フランスが退屈するとき…Quand la France s’ennuie …」と題する記事が掲載された。その書き出し部分と最後の数行を引用してみよう。

「現在,わが国の政治情勢を特徴づけているもの,それは退屈である。フランス人は退屈している。世界を揺るがせている激動に,フランス人は直接にも,間接にも加わっていないのである。(…)今やほぼ本土だけになった小さなフランスは,本当に不幸ではなく,また本当に繁栄もしていない。すべての国と平和な関係を保っているが,世界規模の出来事に大きな影響力を及ぼせる立場にもない。こうしたフランスにおいては,福祉と成長と同じくらい,熱意と想像力が求められているのである。それは確かに容易なことではない…しかしこの必要条件が満たされないと,無感覚症状が全身衰弱を引き起こしかねない。そして,過去にも見られたことだが,極端に言えば,一つの国が退屈ゆえに死滅することもありうる。Ce qui caractérise actuellement notre vie publique, c’est l’ennui. Les Français s’ennuient.  Ils ne participent ni de près ni de loin aux grandes convulsions qui secouent le monde…. Dans une petite France presque réduite à l’hexagone, qui n’est pas vraiment malheureuse ni vraiment prospère, en paix avec tout le monde, sans grande prise sur les événements mondiaux, l’ardeur et l’imagination sont aussi nécessaires que le bien-être et l’expansion… Ce n’est certes pas facile. S’il (cet impératif) n’est pas satisfait, l’anesthésie risque de provoquer la consomption. Et à la limite, cela s’est vu, un pays peut aussi périr d’ennui.」

この記事が出た1週間後の3月22日に,パリ大学ナンテール分校で学生による大学管理棟の占拠が始まり,これが「5月革命」の出発点となったことを考えると,ヴィアンソン=ポンテの分析力に疑問符が付くといっているだけでは済まないものを感じる。しかし,当時から半世紀が経過した2018年4月,『ル・モンド』がホームページに掲載した「3分で説明する68年5月の事件」と題したビデオでも,「フランスは退屈している」という言葉が最初に出てくる。そこでまずは,当時のフランスがどのような状況にあったか,簡単に思い出してみよう。

第2次世界大戦中,ド・ゴールCharles de Gaulle将軍はナチス・ドイツに占領されたフランスでレジスタンス運動の強力な指導者となり,大戦後の数か月間,解放されたフランスで臨時政府を率いた。しかし彼は,新しい憲法草案について主要政党との間に見解の相違があることを理由に,1946年1月に辞職を表明した。実を言えば,レジスタンス運動の英雄として世論の強い支持を期待できると考えて,すぐにも政権の座に呼び戻されると信じてとった行動だったが,その期待は裏切られて10年以上にわたる雌伏の時期(「砂漠横断traversée du désert」と呼ばれる)に耐えることになった。政権に復帰できたのはやっと1958年5月になってからだった。アルジェリア独立戦争で劣勢に立たされていた軍指導部が,アルジェで反政府蜂起(いろいろな呼び方があるが,マスコミではputsch d’Algerというのが一般的である)の強い希望に応えたものだった。しかしひとたび政権を握ったド・ゴールは,アルジェリアの独立を認めて戦争を終わらせる政策をとり,当初は彼を支持した軍部や極右勢力を敵に回すようになり,1962年には正式に独立アルジェリアが誕生した。それに対して,「フランスのアルジェリアAlgérie française」に固執する「秘密武装組織Organisation armée secrète=OAS」がテロ活動を展開したため,暗殺される危機感を抱いたド・ゴールは,全国民が参加する直接普通選挙suffrage universel directによる大統領選出を定めた憲法改定を決め,1962年秋の国民投票によってそれを承認させた。

1946年から1958年までの12年間続いた第4共和政下で,フランスでは「内閣の交代」が26回行われた。もっとも,同じ期間に首相の座に就いたのは18人であり,たとえ政府を率いなかったとしても内閣の主要ポストを複数の内閣の下で占めた政治家も多かった。それに対して,政権に復帰したド・ゴールが成立させた第5共和政は,1958年から1968年5月までの10年間,大統領はド・ゴール1人,首相はミシェル・ドブレMichel Debréとジョルジュ・ポンピドゥーGeorges Pompidouの2人しか数えない,超安定政権であった。とくに,当初は強権政治,さらに言えば独裁政治に走る危険を指摘されていたド・ゴールが,アルジェリア独立戦争という特異な状況下で反対勢力を押さえつけていたことは否めないとしても,1962年の憲法改定以降は,内政が安定していたのは確かである。

それと並行して,第2次世界大戦の終了後,「栄光の30年les trente Glorieuses」と呼ばれる高度経済成長期を経験したフランスは,戦争の荒廃から立ち直っただけでなく,急速な農業離れによる労働力の都市流入を利した製造業の目覚ましい発展の恩恵を受けるかたわら,レジスタンス時代に力をつけた左翼勢力の影響力が強かった戦後初期に基礎が築かれた社会福祉の充実とも相まって,1960年代の半ばごろには,政治の安定と経済の成長の中で「退屈」し始めていたのかもしれない。

もっとも,これはあくまで表面的な分析にとどまる。実際,アルジェリア戦争時代の反戦運動や,逆に軍部の反乱やその受け皿となった極右勢力などが,いずれもなお燻ぶっていた。そうした中で,思想・文化面を見ると,戦後すぐに一世を風靡したサルトルJean-Paul SartreとボーヴォワールSimone de Beauvoirに代表される実存主義existentialismeはすでに衰退し,そのあとにクロード・レヴィ=ストロースClaude Lévi-Straussを旗頭とする構造主義structuralismeや,そのあとをうかがうポスト構造主義がpoststructuralisme主流をなす一方,共産党に代表される伝統左翼を批判する多様な思想グループが乱立していた。

1940年代後半の「ベビーブームbaby-boom」世代が中等教育から大学へと進む時期が,ちょうど1960年代の終わりと重なった。「教育の民主化démocratisation de l’enseignement」あるいは「大衆化massification」が急速に進んでいるというのに,教育の内容はもちろん,中・高校や大学の施設が全く時代に追い付いていなかったうえに,高等教育を卒業しても,魅力ある就職先を見つけることも難しい,「閉塞社会société bloquée」が支配していた。かくして,高校生や大学生は「退屈する」どころか,鬱積する不満を抱えていた。こうして,伝統的な制度や権威が外見上は健在であるのに,それに対する不満がとくに若い世代の間で内向し,蓄積されていた。政治はそうした不満を反映するどころか,その存在にさえ気づいていないかのようにみえたし,労働組合などの既存組織も世代間の断絶を乗り越えられないでいた。

2.世界では

日本における「神田カルチエ・ラタン」を思い出すまでもなく,1968年という年はアメリカをはじめとして,アジア,西ヨーロッパ,東ヨーロッパ,中東など,世界のほとんどあらゆる地域で様々な形で戦争や内紛,反体制運動が展開された。

たとえばアメリカでは,ベトナム戦争反対運動が各地の大学に広がる一方で,フォークソングが若者の間に広く歌われ,ヒッピーたちが既存社会秩序の外側で独自の「コミュニティー」を形作ろうとしていた。そしてまた,公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キングMartin-Luther King牧師と,ケネディ元大統領の弟で民主党の有力な次期大統領候補であったロバート・ケネディRobert Kennedy上院議員が,それぞれ4月4日にメンフィス,そして6月6日ロスアンゼルスで暗殺されて,社会全体に大きな衝撃を与えた。

アジアでは,1967年に始まった中国の「文化大革命grande révolution culturelle」が最高潮に達していた。実際には,毛沢東派と「実権派」の間の権力争いととらえるべきなのだろうが,当時は,多くの若者たちの目に既成の秩序と権力を打倒する反体制の動きととらえられ,「造反有理(定着した仏訳はないようだ。毛沢東主義系のカナダ革命的共産党のパンフレットではon a raison de se révolterと訳している)」という考え方が共感を持って迎えられた。他方,1964年にアメリカが本格的な軍事介入を始めたベトナムでは,1968年1月に民族解放戦線Front national de libération=FNL(Viet Cong)によるテト攻勢Offensive du Têtが戦局に大きな転機をもたらした。関係国間の水面下の交渉が続いて,同年5月13日からパリで和平会談が開始されることになっていた。

ヨーロッパでは,1968年2月にチェコスロバキアでソ連一辺倒の共産党と政府に反対する「プラハの春printemps de Prague」の動きが始まる一方,イタリアのローマでは学生と警官隊の間で激しい衝突が発生し,5月ごろまで全国で学生による大学建物の占拠などが続いた。さらに,当時は共産党政権のもとにあった東ドイツで特異な地位を占めていたベルリンや,フランコ体制下にあったスペインでも,学生による反政府運動が政権側の弾圧に直面した。

中東に目を向けると,前年1967年5月に「第3次中東戦争troisième guerre du Moyen-Orient」に勝利したイスラエルが,パレスチナ全域をはじめ,シナイ半島やゴラン高原などを含めて,占領地territoires occupésを一挙に4倍に拡大して,パレスチナ解放機構Organisation de libération palestinienne=OLPのテロ活動を活発化させることになった。

中南米では,やはり前年の1967年10月にキューバ革命の英雄チェ・ゲバラがボリビア政府軍に捕らえられて,裁判も受けずに処刑されていたが,そのことがかえってゲバラの名を高め,彼の影響力を強めることになっていた。さらに,軍事政権に支配されていたブラジルとメキシコでも,春から秋にかけて学生が主導する激しい反体制運動がおこり,軍と警察による厳しい弾圧のために,メキシコでは多数の死者を出す暴動にまで発展した。

こうして,1968年とその前後の世界各地における主な出来事を足早に振り返ってみるだけでも,ヴィアンソン=ポンテの分析とは反対に,当時の世界が第2次大戦後の東西冷戦と,「欧米帝国主義」支配から大きく動き出そうとしていたことがわかる。アメリカは依然として世界最大の軍事大国ではあったが,経済面では日本や西ヨーロッパの高度成長によってその立場を脅かされ始めていたし,ベトナムをはじめとする国外における軍事介入に伴う財政面の重荷のため,それまでドルが保持していた唯一の国際通貨としての地位を失う危険を感じてもいた(1971年8月には,いわゆる「ニクソン・ショックchoc Nixon」をきっかけにドルの金兌換性convertibilité orが停止され,多数の国を巻き込む大規模な通貨レート(平価)見直しréajustement de paritésへとつながった)。

一方,ソ連を盟主とする「東側陣営」は,1940年代の末にすでにユーゴスラビアによって一枚岩体制を崩されていたが,1950年代の末に兆しを見せ始めた中ソ対立querelle sino-soviétiqueによって決定的な打撃を受けていた。そうした中で,米ソをはじめとする国連安保理事会の常任理事国が核兵器を独占できる体制を整える核不拡散条約Traité de non-prolifération (des armes) nucléaire(s)=TNPが1968年に調印され,冷戦に変わる緊張緩和détenteが端緒についたが,ベトナム戦争が終わるには1975年まで待たなければならなかった。

第2話 1968年5月のフランス – 連載『5月革命 50周年』

著者 : 彌永 康夫 エコール・プリモ講師。1965年~2000年在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努める。

夏学期講座受講生募集中!

Ecole Primots トップページ